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朝は豪雨。部屋で雨が止むのを待つ。お昼頃には最高の天気になった。
会社に行く。
今日も上司に「分かりました。なんでもやります」と言ってしまった。都合のいいときに限って、調子のいいことをのたまう。それがおれの流儀だ。
全力で走り続けないと同じところにはいられない。でも、正しいフォームを身に付ければ、もっと楽に走れるようになることもあるだろう。走ろう、楽に。
とーさまと話していると、内心「このひとも困ったひとやで……」と思うことが多いのだけど、同時に、そういう部分は自分自身にも内在していることを思い知らされるので、最高の反面教師であると言わざるを得ない。「なんで関西弁なの?」「生々しいのは苦手でね」
秋晴れだ。十二時に眠り、六時に起きる。それがどれだけ幸せなことか。
会社に行く。
「手抜きなんてけしからん」は、たいていの場合は「ほれ、洗濯板」で即座に無効化できるのだけど、実際に洗濯板を使っている知人が身の回りにいたのでこのメソッドも万能ではない。ゴゴゴゴゴ。
少子化は、社会的な枠組みの整備によって改善できる課題なのに、そこから目を逸らして「結婚しない若者」や「子どもを持たない夫婦」ばかりを槍玉に挙げる構図はげんなりするね。肉なしカレーに対して「味が薄いのはニンジンが少ないせいだ」って言っているみたいだ。分かりにくいよ。
クルマは無事に車検を通ったので回収していく。車内がピカピカになっていたよ。これからもよろしく。
今日も天気は良い。お月さまが欠けているね。良い眺めであるよ。
会社に行く。
冒険脳なので月食というだけで「なんでおれはアラン・クォーターメインじゃないんだろう。どこで人生を間違えたんだろう」と思います。思わねえよ。
他人の人生についてああだこうだと言うのは好きじゃないし、言われるのはもっと好きじゃない。「それじゃ不幸になる」「不幸になる権利はないわけ?」。うん、話を聞いて欲しいなら聞くよ。大丈夫、余計なことは言わないよ。
自分は、仏壇では手を合わせるし、神社に行けば柏手を打つし、夜はたまに神さまに祈るけど、複数の宗教を横断的に信仰しているというよりは、それらが混淆したハイブリッド宗教を信仰しているということなのだと思う。キリスト教徒だってほとんどは原理主義者じゃなくて、世俗に適合した慣習としての宗教を信仰しているんだからさ。
天気は良い。明日 New3DS が発売されるからだろう。スーファミボタン!
会社に行く。
大気中の炭酸ガスを減らすには、森林の新陳代謝促進が重要になるのではなかろうか。即ち、二十一世紀はきこりの時代である。「切り倒した木々はどうするの? 砂漠に埋める? 江戸城でも作る?」「おーいでてこーい」
「自分の認知は常に歪んでいる」という意識を持つことは、新井理恵の漫画から教わったように思う。ということは、あれは認知療法だったのか。
「自分の幸せと他人の幸せを比べられるのは神さまだけだ」は、自分自身の合理化に役立つとともに、他人に不遇を得心させるのにも悪用できる。ぬるま湯に浸かっている人間が、冷たい海に突き落とされた人間に向かって、「何事も気の持ちようだよ」とやさしく語りかけて「助け」ようとするわけだ。お湯に入れてあげなよ。
台風一過で快晴である。しかしベランダが水浸しだね。じゃあ泳ごうぜ!
朝は、食パンを薄くスライスし、バターとクリームチーズを塗って、ハムを挟む。コーヒーを淹れて、大きな梨の皮を剥く。そんな人生だ。
会社に行く。
子どもの頃は髪が伸びていると、じーさまに「浮浪児に見える」と怒られたものだ。ただ、自分は「浮浪児」が何なのか知らなかった。時代である。
今も昔も人々はたくさんの標識を身に付けて生きているわけだけど、社会における文化が多様であればあるほど、標識はその力を失ってしまうのだろう。タトゥーから忌避性が損なわれて久しいと思いませんか?
自分は典型的な「標識を読み取れない」人間だったので、標識に気付いたときにはそれはもうエウレカですよウォーターですよ。
天気は良い。「あれはまさか……スクリューパイルドライバー!?」「そのまさかだ」「そんな……みんな伏せろっ!」。今日もこの星は平和です。
会社に行く。
主張と主張とが正面衝突してスクラムが形成されるから、相互理解も進むし妥協点も見出される。空気を読み合っていちゃ何も始まらない。「つまり、健全な社会には殴り合いが不可欠だ」「なんでそんなに暴力的なの」
「女性ならではの観点や感性が事業に有益だから女性を登用する」といった話題を見聞きすると、「なるほど、女性を社会進出させてもいいけど、支配構造は変えたくないわけね」と思ってしまう。ただ、女性管理職の割合云々もそうだけど、そういう「口実」を用意してでも女性の社会進出が広がらなければ、社会の非対称性もなかなか改善されないわけで、「口実」にまで正しさを求めるのは傍観者の潔癖というものだろう。世の中を変えるには、苦々しい嘘や劇薬が要ることもある。
天気は良い。リリパット島だ。そこに行けばすべてが分かる。世界を救え。
会社に行く。
土曜日の山はとても良かった。おにぎりを食べ、猫を撫でて、ススキの間を歩き、お地蔵さんに手を合わせた。城山茶屋では「お久しぶりですね」と声をかけられた。娘さんもいらっしゃったよ。また山に行きたい。
新しいメールアドレスについて考えていると Let nothing you dismay とか Goodnight noises everywhere とかが思いつく。長すぎるよ。
TOEIC の結果が出た。無事に 800 を取れた。いろいろ反省点も残っているので、ちゃんと真面目に勉強すれば A ランクも狙えるとは思う。でもねえ。
あらすじ。主人公とゾンビ取りガールちゃんの距離が少しずつ縮まるなか、通り魔にスーパーゾンビ、我らが無敵のお姉ちゃん、そして女子高生ちゃんがあらわれた。どうなる? どうなる!?
ハラハラドキドキっすね! ストーリー展開もさることながら、メタ的なところでは、「福満しげゆきのことだから、いつ鬱展開になるのか分かったもんじゃない」という点で、ついついハラハラドキドキしてしまうわけですよ。いつ主人公がゾンビになってしまうのか分かったもんじゃないし、いつゾンビ取りガールちゃんが妊娠しちゃうのかも分かったもんじゃない。一寸先はゾンビ。
後書きは相変わらず飛ばしています。やっぱりこうじゃなきゃ。今後も楽しみにしています。
小雨が降ったり止んだり。そんな子供だましで私が喜ぶとでも思ったの?
会社に行く。
フォーレの夜想曲第12番を初めて聴いたのは十八歳の頃で、そのときは「なんて強引なんだ!」と思ったことを覚えている。今でもその印象はあまり変わっていない。ただ、あの転調地獄はフォーレの真骨頂だと思っている。
転調は、風景や場面を切り換える技術であり、滑らかである方が望ましい場合もあれば劇的である方が望ましい場合もある。ただ普通、そんなに頻発しない。場面転換が多すぎると観客は疲れてしまうし、素材本来の良さもよく分からなくなる。にもかかわらず、フォーレはこれでもかとばかりに作中に転調技術を突っ込む。即ち、後期フォーレは絶妙なるわさび巻きである。
病院に行ってきた。公園を歩き、茶色い猫を見る。元気そうで良かった。
会社に行く。
「牡蠣を食べて食あたりした」みたいな話を聞くと、「え? どうして体調不良の原因が牡蠣だって分かったの? 付け合わせの千切りキャベツじゃないって分かるもんなの?」と思ってしまう。自分だってときどき体調を崩すけど、「アレが原因かなあ、それともアレかなあ、いやアレかなあ、まああらゆるものが複合的に連関して今の自分があるんだろうなあ、天国のおじいちゃんありがとう!」。ごめんなんか違うわ。今年の冬は牡蠣フライ作るわ。
自分の正義に反する話をされても、あまり言い返さなくなってしまった。振り上げた拳をゆっくり下ろす。「分かりました」と答える。
曇り。 スカルボちゃんはあれだね、主人公が殺されるとシルエットに目だけが浮かび上がる系ヒロインだね。職業は暗殺者で、ナイフ連打が得意技で、空中戦もかなりいけるね。最後は闇にふっと消えるね。
会社に行く。
「いや分かりますよ」と言いたいときは "I know what you mean." と言ってきたのだけど、"I understand where you are coming from." という言い回しを知ってからというもの、そればかり多用している。また極端なんだから。
「『六本木の英会話学校に通っている生徒の平均レベルは、六本木の通行人の平均レベルより低い』ってのはどうかな?」「外国人が多いからね。あとおまえだれ?」「だれって、スタンドだよ、おまえの」
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