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十二月になってしまった。今年もあと一ヶ月でおしまいであるよ。
天気はとても良い。掃除をしてピアノを弾いて、大学を散歩する。落ち葉がたくさん積もっていて楽しいね。
お昼前に電車で東京へ。丸ビルで昼食を取って、ロフトで手帳を買っていく。THE CONRAN SHOP にとてもすてきなカバンがあったよ。DEAN & DELUCA カフェ丸の内でパンとコーヒーを買って、国立近代美術館まで歩き、ジョセフ・クーデルカ展と常設展を見てきた。初期の作風がとても良かったよ。
神保町のブックハウスで本を買って帰る。豚肉とタマネギとモヤシと豆腐を炒めた。
天気はとても良い。いいか、ここは一気に胴回し回転蹴りで攻めるんだ。
会社に行く。
キシピ氏にドライマンゴーを渡す。ホテルバイキングでは生のマンゴーが食べ放題だったよ。いやはや、ありがたいことです。
昨日THE CONRAN SHOP で見かけたカバンは三万円を超えていたのだけど、自分はあまり服飾品を欲しがらないので、これくらい冒険してみても良いのかも知れない。今使っているカバンはもう七年くらい使っている。五千円もしなかったと思うのだけど、買ったときの高揚感は今でもよく覚えている。
先輩と議論をする。「頭を下げれば世の中が少しでも良くなるなら、いくらでも下げればいいじゃないですか」と言ってしまったよ。
相変わらずの露伴ちゃんでありました。ついカッとなって破産しちゃうなんて、この二十年間のあいだおまえは少しも進歩していないぜ! あのとき仗助がスタンドを使えなかったらどうするつもりだったんだ!
今回もまた、「つまり『絵画』で心の究極に挑戦しているんだ」、「裏があるねッ!」、「だから気に入った」、「よろしくね…通訳」といった名言のオンパレードでありました。それにしても、この世界はスタンド使いで充ち満ちていますね。わたしが十一月の真夜中の冷たい風呂場で見かけたゴキブリもたぶんスタンドだったんだと思います。いや、スタンドだったんです。間違いないです。
伊勢丹のくだりが最も好きです。あれなかなか思い付かないと思いますよ。
無料アプリにて。意志力チャレンジに成功し続けたので、なんとか課金せずに済みました。いやもちろん課金しないことが必ずしも「得」とは限らないけれども。
言うまでもなく、とても面白かったのだけど、
1. 思想上の方向性が自分とあまりにも異なる
2. 関係者が金太郎に都合良く振る舞いすぎる
点が引っかかってしまいました。特に後者について書くと、金太郎に魅力があるのはよく分かる。自分だってこういう風になりたい面はあるし、こういうひとがいたら応援してしまうことだろう。それでも、まるでハーレムものの女の子が根本的なところでは主人公を傷付けてこないように、多くの関係者が根本的なところでは金太郎を傷付けてこないので、なんというか、「二口女」を連想してしまうんですよ。自分にとって都合の良い人間は、いつかもう一つの口で自分を食べてしまう人間だ。カイジは安藤や三好が裏切るから面白いんだよ!
そういうわけで、結局最後まで物事が都合良くいかなかった、最初のナビリア編が最も面白かったですね。あれはいい話でした。
読んだ。別に「バーナード嬢曰く。」で薦められていたから読んだわけではない。違うって。いや違うって。ド嬢を読む前に買ったって。
あらすじ。スミスくんは全体主義的ディストピア世界のしょぼい小役人ですが、ちょっと深層心理にファンキーなところがあったため、リベリオンの改心シーンみたいな流れがあって、彼女もできちゃって、ワインも飲んじゃって、激務から解放されたところでスーパーお楽しみターイム! まぶたにセロテープ! 素直になぁれっ! という話でした。ガン=カタは出てきません。目薬も出てきません。生きるために挙手しません。要するに、愛だろ、愛。
感想。むちゃくちゃ面白かった。これ1948年に書かれているのかよ! てっきり自分が生まれた頃の作品だと思い込んでいた。「壁」が1951年に書かれていることを知ったとき以来のショックだ。そういえば数学の研究や音楽作品では、「え? これ十九世紀なの!?」と驚かされることも珍しくありませんね。歴史はあまりにも偉大である。ショパン、早いところ魔界転生してくれねえかなあ。
ウィンストンが転がっていくのは広大な廊下。幅が一キロもあり、燦爛たる金色の光で満ちた廊下を、声を限りに哄笑し、叫ぶように告白しながら転がっていく。何もかも、拷問中でさえ口を割らずに耐え切ったことまで、洗いざらい告白している。自分の全生涯についての話を、すでにそれを知っている人々を聴衆にして語っている。看守たち、他の尋問者たち、白衣の男たち、オブライエン、ジュリア、ミスター・チャリントンも一緒にいて、全員揃って高笑いしながら廊下を転がっていく。必ず起きると未来で待ち設けていた何か恐ろしいことが、どういうわけかいつの間にか過ぎていってしまい、起こらずにすんでしまったのだ。何もかも順調で、もはや苦痛はない。我が生涯は隅々まで暴かれ、理解され、許されたのだ。
「自分が自分でなくなっていく恐怖」については様々な作品で挑戦的に描かれているけれど、この本のクライマックスでは本当にそれを見せつけられてしまった。悲しくなってしまうなあ。「イニシエーション・ラブ」もそういう話でしたね。また適当なことを。いやまじめな話だよ。「ひぐらしのなく頃に」もそういう話だと思うよ。
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