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とても暖かい、春の一日であった。もうコートは要らないね。春だ春だ。
午前中は音楽を聴きながら、のんびり部屋の掃除をして過ごす。掃除機のネジを締め直して、換気扇を雑巾で拭いた。下北沢で昼食を取る。
お昼過ぎに部屋を出て、電車とバスで広尾へ。住宅地を散歩し、公園でコーヒーを飲む。JOUVAUD というお店でケーキを買ったのだけど、ここは当たりだったのでまた行こう。有栖川公園の丘の上ではたくさんの人たちがお花見をしていた。いいなあ。麻布十番まで歩き、バスと電車に乗って帰る。
ピアノを弾く。ショパンのバラード第4番の楽譜を開いた。最も好きな曲だ。最近のお気に入りは、冒頭の主題が A-dur で再現される直前の左手です。
北に向かって手を合わせる。さくらは本当に素晴らしい。
「P・T・S・D! P・T・S・D!」「不・謹・慎! 不・謹・慎!」「なんだそりゃ」
ヴェトナムから帰ってきた悲劇の英雄ランボーに、そうとは知らず横暴保安官がついうっかりちょっかいを出してしまったがために、「屋上へ行こうぜ……久しぶりに…………キレちまったよ……」というお話。懐かしのオレ無罪メソッドが炸裂しました。
面白かった面白かった。ランボー無敵だなあ。即席で服を作るとか即席で食料を作るとか即席でたいまつを作るとか、グリーンベレーっていったい何者なんですか。主人公補正に加えてグリーンベレー補正、さらにスタローン補正でこれはもう完璧だ。ロッキーを見たときも思ったけど、スタローンは無表情がいいですね。ロッキーもアポロと戦うならゲリラ戦に持ち込めば良かったのに。
それにしても、ストーリー上、最初と最後のシーンがいちばん重要のはずなのに、アクションシーンの理由付けにしかなっていないところがすてきですね。深いのか深くないのかはっきりしろ! さっさとしないとぶっ殺すぞ! なんでそんなにキレてんの。
というわけで 2 も見ます。「もうヴェトナム関係ない」ということですが、是非とも「だがそれがいい」と言わせていただきたい。
あらすじ。ランボーが、怒って、脱出した。終わり。つかの間の愛は泡となり消えた。ガガガガガガガガ。
ごめん、「もうヴェトナム関係ない」、ありゃウソだった。おもいっきり、ヴェトナムの話だったわ。関係ないのは PTSD の方だったわ。ごめんごめん。ほんとごめん。
祖国から冷遇されてきた戦士たち、という前作のテーマはちゃんと残っていたのに、とてもランボーが同一人物には見えなかったよ。いや、ラストシーンは良かったさ。しかしなんでこんなに爆発ばっかりなの。別に要らないじゃん、爆発。え? 要る? 爆発は要る? まあ、要るのかもね。三重補正はほんと無敵だわ。
こうやって映画にぶつぶつ文句を言うのも、人生の楽しみのうちさ。さて、あと二つもあるのか。
良い天気で、とても暖かい。絶好の花見日和だ。たぶん、今日が春の中心なのだと思う。
選挙に行ってから、電車で東松原へ。羽根木公園を散歩する。相変わらずいいところだ。ジジがいたので挨拶をした。やあ、しばらく。
梅ヶ丘で昼食を取って、北沢川緑道を歩く。三年前のあの日、北沢川緑道に桜が咲いていなかったら、自分の人生は大きく違ったところに向かっていたのかも知れない。またその話ですか。信濃屋とオオゼキに寄って帰る。+7
夕方に大学を散歩した。野球場など、普段は歩かないところを歩けて、とても面白かった。再び桜を満喫してきたよ。歳を取れば取るほど、花や鳥が好きになっていく。風や月も好きです。
友人が遊びに来てくれたので、一緒に夕食を取る。お寿司、美味しゅうございました。+7
ジュブナイル!
架空の青森と北海道を舞台とした、スーパー中学生ハイパー高校生による青春 SF 映画でした。平行世界! 位相変換! リア充爆発しろ!
またしても新海誠はやりたいことをやってくれたなあ、という印象。いちいち憎いことをしてくれるぜ。妄想的といえば妄想的ですよ。天まで届く塔。自作飛行機。ヴァイオリン。眠れる森の少女。夢の邂逅。約束を果たす少年。心の奥で白いミサイルが弾けた痕は深いクレーター。だがそれがいい。SF 設定なんて妄想シチュ実現のためのお膳立てですよ。お偉いさんにはそれがわからんのです。
それはそうと、富澤先生、プレゼンで字が多いのは嫌われますよ。高橋メソッドを使いましょう。
残念ながら曇りが続く。これも春さ。初夏にはきちんと晴れてくれよ。
会社に行く。
電車に視覚障碍者の方がいらっしゃったので脊髄反射で席を譲った。白杖をお持ちだとすぐ分かるので助かります。親切の押し売りは得意技だぜ。
キシピ氏と昼食を取る。僕は油淋鶏を食べ、キシピ氏は高菜麺を食べる。
「人を呪わば穴二つ」という言葉から分かるのは、穴に片足を突っ込んでいる人間こそが、他人を呪おうとしてしまうということだ。他人を呪いたくなってしまったときは、自分の足下をよく見た方がいい。そこに穴があるのなら、他人を呪う前に、穴から抜け出すことだ。穴はいつでも我々を狙っている。我々を穴の中に引きずり込んで、他人を呪わせようとしている。穴の思う壺にはまってはいけない。穏やかな初夏の日に、鳥たちの声と木漏れ日の中を散歩することは、そのひとを穴から遠ざける。そんなパーフェクト・ウォーカは、他人を呪おうとは思わない。
とても暖かい初夏の日であった。夜には雨が降り、とても強い風が吹いた。
会社に行く。
病院に行ってきた。今日は診察はなく検査だけ。いやはや、つかれました。
職場の窓からこいのぼりが見える。こいのぼりは、もちろん、親から子への愛の具象である。世界中のこどもたちがつつがなく成長しますように。
連休には町田に行ったり城山に行ったりしたい。自分にとって丘や山を歩くということは、自分の矮小性を解放する行為であり、そういう意味では宗教的ですらある。信仰の対象は、落ち葉の積もった道であり、小川の流れのせせらぎであり、土に棲まう虫たちであり、春を告げる鳥の声であり、木漏れ日の美しさであり、苔や茸の眠りであり、岩の稜線の峻厳さである。神への敬虔な祈りが我々を死の恐怖から遠ざけるように、丘や山を歩くこともまた我々を死の恐怖から遠ざける。嘘じゃない。
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