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 花瓶を割らない百の方法 : 05/01/03

 これから一日一つずつ考えていくことにしよう。しかし僕は何故こんな無駄なことをしようとしているのでしょうか。謎です。

 001 : 花瓶を床に落とさない : 05/01/04

 基本中の基本である。これができない奴は留年を覚悟するように。

 002 : 花瓶を放り投げない : 05/01/05

 これもまた基本である。火山岩で言えば玄武岩くらいに基本だ。

 003 : 花瓶を壁に叩き付けない : 05/01/06

 まだまだ基本。チャールズ・モンロー・シュルツの「ピーナッツ」で言えばライナス・ヴァン・ペルトくらいに基本。

 004 : 花瓶を高いところに置かない : 05/01/07

 これは言うまでもない。具体的には、安定しない脚立の上、可動式書架の上、電信柱の変圧器の上、東京タワーの先端の上、槍ヶ岳の頂の上、パブの隣の席でヤケ酒を飲んでいる外人レスラーの頭の上、などに置いてはいけない。おいおいどうしたんだい、ハンス、そんなに酒を飲んで。聞いてくれよう、ゴードン。はは、なんだ、また女に振られたのか。そんな大事な話に水を差すような真似をしてはいけない。花瓶だからといって水を差してはいけない。

 005 : 花瓶を子供の手の届くところに置かない : 05/01/08

 子供は恐ろしい。決して子供を侮ってはいけない。詩人ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」は、花瓶を見たら割らずにはいられない性癖を持った子供と、それに加担して隠蔽作業を行う子供の集団を描いた、傑作小説である。終盤でジャン少年が「黒い靄のようなものがやってきて、花瓶を包み込んで、気が付いたときには花瓶はもうどこにもなくなっていた。もっと花瓶を割りたいよう」と言うシーンでは、読む者は涙せずにはいられないだろう。

 006 : 花瓶を犬や猫が行くところに置かない : 05/01/09

 今度は犬や猫である。犬や猫は恐ろしい。何しろ奴らには花瓶という概念がなく、即ち花瓶を割るという概念もない。更に突き進めれば、花瓶を割ることが悪いという概念もなく、花瓶を割ることは悪いことだから花瓶を割ったら怒られるという概念もない。いや、あるのかも知れないけど、そんなことはどうでもいい。奴らには、花瓶を割ったらそれが小林のせいにされて小林はそれが原因で成績が悪くなって連中と付き合うようになって暴力事件を起こして高校を中退して一人で東京に出てサングラスの男で水商売の女のヒモでヤクザの手下で鉄砲玉で金バッチで網走刑務所で黄色いハンカチで最後にはみんなで大号泣、という概念すらないのだ。犬や猫は恐ろしい。

 007 : 花瓶を金属バットで殴らない : 05/01/10

 木製バットなら良いのかというと、難しいことにそうでもない。ただし布製バットや紙製バットなら場合によっては問題ないし、これは愚か者には見えないバットでございます王様、というのもありである。

 008 : 花瓶をゴルフクラブで叩かない : 05/01/11

 きっと花瓶の中にゴルフボールが入ってしまったのだろう。そういうときはワンペナルティを付加し、花瓶から 2 クラブレングス内にドロップするように。難しいグリーンの場合はわざと花瓶の中に入れるという高等テクニックも存在するようだ。

 009 : 花瓶をハンマーで殴らない : 05/01/12

 もう殴りたかったら殴ってもいいよ。

 010 : 花瓶を弓矢で射抜かない : 05/01/13

 決して息子の頭の上に花瓶を乗せて遠くから弓矢で打ち抜くような真似をしてはいけない。危ないじゃないか。花瓶は林檎とは違うんだ。うまく矢が花瓶に当たったとしても、息子が危険であることに変わりはない。

 011 : 花瓶をビリヤードのキューで突かない : 05/01/14

 きっと手玉が花瓶の中に入ってしまったのだろう。それはファールだ。取り出して好きなところに置きなさい。無理して突くな。冷静になってよく考えてみろ。君が突こうとしているのは手玉じゃない。花瓶だ。

 012 : 花瓶を居合いの的にしない : 05/01/15

 真っ二つに斬ってすぐに断面と断面をくっつけたところで、花瓶が元に戻るわけじゃない。大根じゃあるまいし。いや、大根なら本当に元に戻るのか。

 013 : 花瓶を万力で挟まない : 05/01/16

 どういう状況なのか、誰か説明して欲しい。

 014 : 花瓶をのこぎりで挽き切らない : 05/01/17

 ああ、だから万力で挟んでいたのか。済まない、勘違いをしていた。

 015 : 花瓶をろくろの上に載せて回さない : 05/01/18

 そういう真似は花瓶を焼く前にしなさい。焼いてからろくろの上に載せても仕方ないだろう。君はあれだな、全身を蚊に刺されてから虫除けスプレーを使うような奴だな。

 016 : 花瓶を窯の中に入れて加熱しない : 05/01/19

 だからそういう真似は花瓶を焼く前にしなさい。君はあれだな、コーヒーがこぼれてからソーサーを敷くような奴だな。靴が濡れてから防水ワックスを塗るような奴だな。家が全焼してから火災保険に入るような奴だな。

 017 : 花瓶を完成させてから出来に不満を持たない : 05/01/20

 陶芸家というのは気難しいものと相場が決まっている。工房の床は花瓶の欠片でいっぱいだ。しかし問題なのは、一度完成させた花瓶をどうやってもう一度完成させたのかということだ。君はあれだな、頭に怪我をしてからヘルメットを被ったら怪我が治ってしまうような奴だな。

 018 : 花瓶をドラムセットの横に置かない : 05/01/21

 ライトシンバルと間違えて叩いてしまうかも知れない。しかしそういうバンドがあっても良さそうだ。ベイス・ブレイカーズ、略してベスブレ。曲の最後には必ず花瓶を割るのである。ライブの最初には曲数分の花瓶が並んでいるに違いない。アンコール用の花瓶をどこに隠しておくのか、センスが問われるところである。

 019 : 花瓶をサンドバッグの中に入れない : 05/01/22

 サンドバッグを叩いたら花瓶の割れる音がする。ちょっとシュールな光景である。まあそれなら花瓶が砂になるまで叩き続ければ済む問題であろう。きっとどこかの拳法の流派には、花瓶の詰まった袋が普通のサンドバッグになるまでひたすら殴り続ける、という修行があるに違いない。

 020 : 花瓶を相撲の土俵際に置かない : 05/01/23

 土俵際が花瓶で敷き詰められていたら、そりゃ危なくて仕方ないだろう。負けた力士は花瓶の破片で血まみれになってしまう。下手したら再起不能の怪我を負ってしまうかも知れない。これなら闘う方も見る方も普段以上の力が入るというものである。きっと誰よりも力が入っているのは、丹精を込めて花瓶を作り上げた陶芸家の方であろう。我が子以上に愛情を降り注いだ花瓶が、今にも力士の下敷きになってしまうかも知れないのだ。もしもの場合に備えて、工房には遺書を残してある。そんなに大切な花瓶なら土俵際に置くな。

 021 : 花瓶を軽トラの荷台に載せて運ばない : 05/01/24

 しっかり固定しておくから大丈夫だよ、などという運送屋の甘言に騙されてはいけない。軽トラの荷台に載せられて、二百キロを超える移動に耐えて、心身ともに無事でいた花瓶を君は知っているのか。軽トラの荷台に載せられて二百キロ移動すれば、あらゆる存在は崩壊してしまう。花瓶だろうと箪笥だろうと人間だろうと佃煮だろうと博物館だろうと素粒子だろうと信仰だろうと数学だろうとアルコール依存症だろうと同じことだ。崩壊してしまうのが嫌なら、数学を軽トラの荷台に載せて運ばないことだ。

 022 : 花瓶を気球の中に持ち込まない : 05/01/25

 何しろ気球である。重力と浮力の絶妙な力関係により、一時的な浮遊が許される奇跡の乗り物。ついに人類が手に入れてしまった、オーバーテクノロジーの産物である。万が一、動力に異常が生じたらどうするのか。気球は自重のために高度を落とし、やがて地面と衝突してしまう。大惨事だ。気球の重さを少しでも減らすために、内部のあらゆるものが落とされることになる。砂袋が落とされ、座席が落とされ、荷物が落とされ、衣服が落とされ、金塊が落とされ、札束が落とされ、友人が落とされ、家族が落とされる。髪の毛を切り落とし、場合によっては利き腕をも切り落とす。気が動転してパラシュートを落とす奴だっている。そんなときに花瓶が無事でいられる保証がどこにあるのだろう。自分の命よりも花瓶の命を優先することができる、真の勇者がこの世のどこにいるというのだろうか。そんな奴はいない。この腐り切った世の中にそんな奴はいない。

 023 : 花瓶を雨の日の喫茶店の入口の床に置かない : 05/01/26

 傘立てと間違えられてしまうかも知れない。雨の日の喫茶店には様々な人間がやってくる。中には乱暴な客だっていることだろう。ドアが壊れそうなくらいに大きな音を立てて、見知らぬ男は店の中に入ってきた。全身が雨で濡れていて、真っ赤な顔をしていた。案内されるまでもなく勝手に奥の席に向かうと、ソファーに腰掛けて両足をテーブルの上に載せた。メニューもろくに見ずに怒鳴り声を上げる。コーヒー。店の雑誌を取り出しては叩き付けるようにテーブルに置き、つまらなそうに何回かページを捲ると、すぐにそれも止めてポケットから煙草を取り出した。煙草はしけっているらしく、火が付くのに少し時間がかかった。火が煙草の三分の一を焦がすと、灰皿に擦り付け、また新しい煙草に手を出す。男の頬は少し腫れていて、口元を切った跡があった。目が濁っていた。ウエイトレスが運んできたコーヒーに口を付けると、男は苦々しげに呟いた。味がしねえ。半分も飲まずに男は立ち上がった。レジに千円札を無造作に置くと、後ろも見ずに雨の降る外へと向かう。男は苛立たしそうに足元を見た。そこには花瓶があった。

 024 : 花瓶を置いた教室でバレーボールをしない : 05/01/27

 バレーボールという中途半端さがいけない。きっとビーチバレー用のボールを使っているのだろう。ふわふわしていて当たってもあまり痛くないあれである。最悪だ。乳母車に轢かれて死ぬくらい気分が悪い。死ぬのならやはり大型トラックや貨物列車や蒸気機関車に轢かれたいと思うのが人情ではないか。同じことだ。バレーなどではいけない。サッカーやバスケやラグビーをすべきだ。スカッシュやゴルフや砲丸投げでも構わない。できればボールなどには頼らず、正面から花瓶に体当たりをして欲しい。窓際の花瓶を蹴散らして、大空まで飛び立つのが理想的である。そうすれば花瓶も浮かばれることであろう。

 025 : 花瓶を眼鏡ケースとして使わない : 05/01/28

 眼鏡ケースを使うのは、例外的な使用法を除けば、眼鏡を外すときと、眼鏡をつけるときに限られる。まあ外すときはまだいい。部屋が暗い場合も多いかも知れないが、しかし意識はまだはっきりしていることだろう。毎日繰り返してきた動きだ、何の問題もない。焦るな。心の中でゆっくり十を数えろ。呼吸を意識するんだ。右手で眼鏡を外して、フレームを折りたたみ、ゆっくりと手を伸ばし、花瓶の中に入れてしまえばいい。五歳の子供にだってできる。簡単な動きだ。ほら、入った。問題は眼鏡をつけるときである。特に朝一番だ。血圧が低い場合は尚のこと危険である。昨日の深酒のせいで二日酔いになっていることもあるだろう。もしかしたら枕元が血で濡れているかも知れない。全身が震えている。ベッドから這い出て、眼鏡に向かって手を伸ばす。そこにあるのは花瓶である。

 026 : 花瓶をボウリング場に持っていかない : 05/01/29

 ボールとして使われるかも知れないし、ピンとして使われるかも知れない。どちらにしても致命的な打撃を受けることは想像に難くない。いや、ピンの場合にはまだ救いようがある。プレイヤーの力量と花瓶の位置次第では、直接の打撃を受けずに済む場合だって十分に考えられるだろう。この広い世の中には一ゲームに二十三回ガーターを出すプレイヤーだっているに違いない。そういう場合は安心だ。問題はボールの場合である。というのも、ボウリングのボールには指を入れるための三つの穴が開いていなければならないのだ。しかし多くの花瓶にはそのような指のサイズの穴など開いていない。そこで何らかの方法によって花瓶に穴を開けることになる。指先の力を最大限に振り絞って、穴が開くまで花瓶を握り締めるしかない。花瓶に穴が開く程度に、かつ花瓶が割れない程度に、力を込めて花瓶を握り締める。この大いなる矛盾の上に、ボウリングというスポーツは厳然として存在している。

 027 : 花瓶を手品の箱に入れない : 05/01/30

 手品の箱はこの世で最も危険な場所のひとつだと言えるだろう。剣で突き刺されることもあるし、回転のこぎりで切られることもある。狭い箱の暗闇のどこを探しても逃げ場は見付からない。これだけ恐ろしい場所が他に考えられるだろうか。箱の中に入っている手品師は、終始笑顔でいられるかも知れない。しかしそれは手品師が、自分が無事でいられることを知っているからだ。笑顔で自分の命を売る覚悟を持った手品師など、アマゾン川の河口を探したとしても見付かるものではない。花瓶の場合はどうだろうか。花瓶は自分が無事でいられることを知らない。花瓶には何も知らされていない。誰も何も教えてはくれなかった。ただ自分は身動きの取れない箱の中にいて、目の前では剣や回転のこぎりが待っている。箱の中の花瓶には、全観客からの強烈な悪意と殺意が向けられている。割れろ割れろ割れろ。花瓶は恐怖に膨らみ、怪物となり、そして破裂する。すべては手品の箱の中での出来事である。

 028 : 花瓶を木の枝に取り付けない : 05/01/31

 いつの頃からか、その花瓶には仲の良いシジュウカラの夫婦が住むようになっていた。決して暖かい季節ではなかったので、夫婦としても風から身を守ってくれる家が欲しかったのであろう。やがて空気は少しずつ暖かくなり、夫婦は子供を授かることになった。可愛い雛達は大声で泣き喚き、夫婦は一生懸命に餌を集め、子供達の空腹を満たした。夫婦は子供達を守り抜き、花瓶は夫婦を守り抜いた。春が過ぎて、夏が来る。子供達も大きくなり、巣立ちの季節がやってきた。夫婦が揃って満足そうに頷くと、子供達は後ろも見ずに飛び立っていった。立派な姿であった。もう二度と会うこともないだろう。子供達の背中を見送り、しばらく見慣れた景色を眺めていた夫婦も、やがて子供達と同じように飛び立っていった。そして花瓶には誰もいなくなった。役目を終えたことを知った花瓶は、シジュウカラの夫婦が見ていた景色を満足そうに眺め、そして地面へと身を投げた。誰も音を聞く者はなく、相変わらずそこには一本の木があった。

 029 : 花瓶を靴の中に入れない : 05/02/01

 靴の中である。何が入っているのか知れたものではない。具体的には、小石、画鋲、パチンコ玉、サイコロ、葡萄、蜜柑、鼠、猫、小鹿、蝦夷鹿、馴鹿、馬鹿などが入っている恐れがある。地方や時代によっては、トキ、ドードー、ニホンオオカミ、ナウマンゾウが入っていることもあるだろう。十手、火縄銃、電気椅子、ギロチン台が入っているかも知れない。そんなところに大切な花瓶を入れることができるだろうか。無数のピラニアが共食いしている水の中に裸で飛び込むような真似であると言えよう。あるいは無数のオタマジャクシが共食いしている水の中に裸で飛び込むような真似であると言えよう。花瓶を割りたくなければ、花瓶を靴の中に入れないことだ。

 030 : 花瓶を帽子の中に入れない : 05/02/02

 帽子の中である。何が入っているのか知れたものではない。具体的には、貨幣、紙幣、ハンカチ、万国旗、ステッキ、トランプ、鳩、鴉、鷹、鷲、蝙蝠、軍鶏などが入っている恐れがある。地方や時代によっては、プテラノドン、ディモルフォドン、ランフォリンクス、アンハングエラが入っていることもあるだろう。ステゴサウルス、トリケラトプス、ティラノサウルス、ブラキオサウルスが入っているかも知れない。そんなところに大切な花瓶を入れることができるだろうか。無数のヒルが共食いしている水の中に裸で飛び込むような真似であると言えよう。あるいは無数の三葉虫が共食いしている水の中に裸で飛び込むような真似であると言えよう。花瓶を割りたくなければ、花瓶を帽子の中に入れないことだ。

 031 : 花瓶を手袋の中に入れない : 05/02/03

 手袋の中である。何が入っているのか知れたものではない。具体的には、右手掌、右母指、右示指、右中指、右薬指、右小指、左手掌、左母指、左示指、左中指、左薬指、左小指などが入っている恐れがある。地方や時代によっては、橈骨手根関節、手根間関節、中手間関節、手の指節間関節が入っていることもあるだろう。背側橈骨手根靱帯、骨間手根間靱帯、放射状手根靱帯、深横中手靱帯が入っているかも知れない。そんなところに大切な花瓶を入れることができるだろうか。無数の水分子が共食いしている水の中に裸で飛び込むような真似であると言えよう。あるいは無数の一酸化二水素分子が共食いしている水の中に裸で飛び込むような真似であると言えよう。花瓶を割りたくなければ、花瓶を手袋の中に入れないことだ。

 032 : 花瓶を靴箱の中に入れない : 05/02/04

 ついうっかりミスを犯してしまうことくらい誰にだってある。花瓶を靴と間違えて外に出てしまった経験は、誰もが恥ずかしい記憶と共に隠し持っているものだろう。確かに花瓶と靴はとてもよく似ている。ト音記号とヘ音記号くらい似ている。あるいは四分音符と四分休符くらい似ている。それに靴を履く時間帯は朝が多く、朝はまだ寝惚けていることが多いものだ。花瓶を履いていってしまうのも無理はない。誰がそんなことを責められるのだろうか。人間はミスをする生き物だということを忘れてはならない。さて花瓶の履き方であるが、足の指で花瓶の首を挟むタイプの人間もいれば、花瓶の中に足を突っ込むタイプの人間もいる。ここが実に興味深いところで、実際にある大学教授はこの事象に関する統計的な分布を調べたそうである。恥ずべき過去を明るみに出さなければならないこの調査は当時物議を醸し出し、政治的な事情と絡んで人権問題にまで発展しかけたが、記者会見の場に現れた教授自身が花瓶を履いていたために、一連の出来事は教授が用意した壮大なジョークであることが判明したのである。これが後に言う、水島花瓶事件であることは言うまでもない。因みにこのとき教授が履いてきた花瓶は、帰りに近所の犬に噛まれて割れたそうだ。

 033 : 花瓶を帽子掛けに掛けない : 05/02/05

 いや、何も責めるようなつもりはないんだ。別に構わないじゃないか。花瓶を帽子と間違えて被ってしまったって。そういうときだってあるだろう。間違えたっていいじゃない、人間だもの。被ったっていいんだ。そこまでは、いいんだ。問題は家に帰って帽子を外すときなんだ。人は家に帰り、帽子は帽子掛けに帰る。姫が月に帰るように、命が塵に帰るように、帽子は帽子掛けに帰るものだ。しかしそのとき、人はどのようにして帽子を帽子掛けに戻すか。決まっている。帽子掛けに背中を向けたまま、背後に帽子を放り投げる。これだ。そして帽子は見事に帽子掛けに引っ掛かる。完璧。何も問題はない。そのはずだったのに。まさか帽子が花瓶だったなんて。そして花瓶が帽子掛けに引っ掛からなかったなんて。神様、あなたはなんて残酷なんだ。姫を返せ。命を返せ。

 034 : 花瓶をコートのポケットに突っ込まない : 05/02/06

 手袋を取り出そうとしたのに花瓶が出てきたら、そりゃ誰だってやるせない思いに駆られてしまうことだろう。毛糸で出来た暖かい手袋が欲しかったのに、土や石で出来た冷たい花瓶が出てくるのだ。悲しい。これくらい悲しいことがあるだろうか。箪笥を開けたら一昨年のカレンダーが出てきたくらいに悲しい。積み重ねた本の下に洗顔フォームを見付けたくらいに悲しい。冷蔵庫を開けたらビデオテープが入っていたくらいに悲しい。しかしどんなに言葉を重ねたとしても、悲しみを正確に伝えることはできない。ただそれが最も的確に表現される言語のことを、人間は怒りと呼んでいるようだ。カレンダーは一枚残らず引き裂かれてから灰も残らぬほど焼かれ、洗顔フォームは一滴残らず絞り出されてからシュー生地に詰められ、ビデオテープは冷凍庫で冷凍されてから電子レンジで解凍され、花瓶は握り締められてから目の前の通行人に叩き付けられるのである。

 035 : 花瓶を灰皿の代わりにしない : 05/02/07

 ものぐさな人間は決して灰皿の掃除なんかしないものだ。そもそもそういう発想自体が欠けているのだから仕方ない。使えるだけ使って吸殻が入らなくなったら諦めて次の灰皿を探す。そういうものである。空き缶でもいいし、植木鉢だっていい。花瓶なんてもってこいの灰皿ではないか。普通の灰皿の十倍は吸殻が入ること請け合いである。ものぐさな人間は喜んで花瓶を灰皿にすることだろう。さてその花瓶にももう吸殻が入らなくなるときが来る。しかしものぐさな人間は決して掃除をしない。放置である。吸殻の詰まった花瓶はいつしか部屋の風景の一部と化す。空気と同化して意識しなければ見えないものになる。冷凍庫に何故か入っている保冷剤のような存在だ。しかしそんな花瓶も永遠にそのままでいられるわけではない。いつか処理される日が来る。概してものぐさな人間は一生を通じてものぐさな人間であるから、きっとその親しい人間辺りが花瓶を見付けて疑問に思うのであろう。持ち上げてみるとやたらと重い。見たところ花瓶の口には吸殻ばかりであるが、もしかしたら中には高価なものでも隠してあるのではないか。人目の付かないところに行き、花瓶を振り上げる。愚かである。ものぐさな人間は決して財産の隠蔽なんかしないものだ。そもそもそういう発想自体が欠けているのだから仕方ない。

 036 : 花瓶を浮輪の代わりにしない : 05/02/08

 どういう花瓶だ。きっと断面積がやたらと大きいに違いない。大の大人が楽々と横になって文庫本を読めるくらいのサイズがあるのだろう。海だ。太陽の光が降り注ぐ下、男は半裸姿で花瓶に横たわっている。傍にはクーラーボックスとステレオラジオ。冷たい飲み物と暖かい音楽がなかったら、生きている意味なんてあんまりない。打ち寄せる波の音を聴きながら、男は深い眠りに落ちてしまう。幸せな気分で寝ることに問題があるのなら、それは神様の設計ミスというものだろう。しかし言うまでもないことであるが、神様の設計が完璧である保証なんてどこにもない。やがて男は目を覚ます。もう空気は冷たくなっていて、陸地はどこにも見えない。嫌な予感がする。男は水面の下を覗き込む。そこには大きな顎を持った生き物が泳いでいる。花瓶に衝撃が走る。男は慌てて周囲を見渡す。海の他には何も見えない。空には月が浮かんでいる。

 037 : 花瓶をドアの前に置かない : 05/02/09

 考えられる状況は四つある。一、ドアを引いて開ける場合で花瓶がドアの手前にある場合。二、ドアを引いて開ける場合で花瓶がドアの向こうにある場合。三、ドアを押して開ける場合で花瓶がドアの手前にある場合。四、ドアを押して開ける場合で花瓶がドアの向こうにある場合。一は気を付ければ特に問題ないだろう。とにかくドアが花瓶に当たらないように、ゆっくり慎重に開けることだ。何だったら花瓶を少し動かしたって構わない。多少の危険は伴うが、それくらいは許されるだろう。二も気を付ければ特に問題ないだろう。とにかくドアが花瓶に当たらないように、ゆっくり慎重に開けることだ。何だったら花瓶を少し動かしたって構わない。多少の危険は伴うが、それくらいは許されるだろう。三も気を付ければ特に問題ないだろう。とにかくドアが花瓶に当たらないように、ゆっくり慎重に開けることだ。何だったら花瓶を少し動かしたって構わない。多少の危険は伴うが、それくらいは許されるだろう。四はどうしても救いようがない。きっと花瓶には揮発性の毒薬が入っているのだろう。逃げろ、奴らの罠だ。

 038 : 花瓶を自動ドアの間に置かない : 05/02/10

 自動ドアの種類によっては、花瓶を感知して閉まらずにいるかも知れない。しかしもしも花瓶が感知されず、自動ドアが非情にも閉まってしまったら。もう悲劇を避けることはできない。決定された未来には逆らえないのだ。最悪の場合というものを想定してみよう。エレベーターだ。ドアが開く。花瓶をドアの位置に置く。ボタンを押す。ドアが閉まる。花瓶はドアに挟まれる。ここで割れればそれで終わりだ。お話にもなりはしない。しかしその先があるとしたら。意外にも花瓶は頑丈に作られていて、自動ドアの衝撃にも耐えられるとしたら。悲劇を避けられるかも知れない。決定された未来を覆せるかも知れない。だが誰もが知っているように、運命とは残酷なものだ。エレベーターが動き出す。上の階に向かう。花瓶は挟まれたままだ。天井が近付いてくる。自動ドアは笑っている。その大きな歯で、花瓶を噛み砕こうとしている。

 039 : 花瓶を回転扉の中に置かない : 05/02/11

 月明かりでさえも暗闇に遮られて気の迷いのように思える夜。誰にも気付かれることなく、奴はそこに忍び込んでいた。懐から花瓶を取り出して、回転扉の中に置く。決して割れないように、赤子を寝かすような優しい手付きで、花瓶を床に置く。そして慎重に回転扉を回す。ゆっくり、ゆっくり。もしその様子を見ている者がいても、回転扉が動いている事実に気付かないくらい、静かに緩やかに回す。回転扉は花瓶に当たる。しかし花瓶が割れることはない。そよ風に当たって割れる花瓶があるものか。ゆっくり、ゆっくり。回転扉は動き、花瓶も動く。気の遠くなるような作業だ。もう始めてから二時間以上が経過している。奴の顔にも疲労の色が浮かんでいた。もうこれくらいでいいだろう。奴は手を止める。そして回転扉を少しだけ戻す。これで完璧だ。奴は花瓶に背中を向けて立ち去る。やがて朝になる。誰かがやってくる。何の疑問も持たずに回転扉を回そうとしている。奴はそれを眺めている。白い前歯が見えている。

 040 : 花瓶をシャッターの下に置かない : 05/02/12

 おい、ちょっと待ちたまえ。何だね、この花瓶は。どうしてシャッターの下にこんなものが置いてあるんだ。いや、別に私はこの花瓶の詳しい素性を知りたいわけじゃない。この花瓶がどのようにして作られたのか、どんな職人が作ったのか、どんな技術によるものなのか、あるいはどんな工場で作られたのか、どんな機械が使われたのか、工場長はどんな名前なのか、この花瓶が出荷された日の工場長の朝食は何だったのか、朝食に工場長の嫌いなコールスローがあったせいで花瓶は普段よりも粗末な扱いを受けていないのか、そんなことはどうだっていいんだ。私は君の出身地や生年月日なんか知りたくもないよ。君が何年何月何日の何時何分何秒にどこの病院のどの手術室で何ヶ月と何日の果てに母親の胎内から出てきたのかなんてどうでもいい。どんな医者がどんなメスを握ってどのように君の母親の皮膚を切り裂いたのかに興味はないんだ。問題なのは、君がどのような仕事をするのか、そしてこれが花瓶であることだ。いいかい、よく考えてみたまえ。別に難しいことじゃない。その一、花瓶がシャッターの下に置いてある。その二、君はシャッターを下ろそうとしている。その三。その三は一体何だと思う。小さな子供にだって分かることだよ。そうだね。その三、花瓶はシャッターの下敷きになって壊れる。簡単なことじゃないか。小銭を自動販売機に入れて、ボタンを押せば、選んだジュースは出てくるんだよ。君だって分かっているじゃないか。てっきり私は、君が自動販売機の使い方も知らないような田舎者なのかと思ったよ。自動販売機に向かってコーラが飲みたいんですって言ってもコーラは出てこないからね。ははは。君がどんな人間かなんてどうでもいいが、自動販売機の使い方くらいは知っていないとな。おい、何だ、その目付きは。私を見下すな。おい。ぐ。お前。ぐ。こんなことをして。ぐ。ぐ。ただで済むとでも。ぐ。ぐ。くそ。何だ。おい。ちょっと待て。お前、何をしようとしている。待て待て。これを外せ。外せ。田舎者。シャッターを下ろすんじゃない。下ろすな。下ろすな。私は花瓶じゃない。

 041 : 花瓶を窓の外に置かない : 05/02/13

 何があったとしても決して花瓶を窓の外に置いてはいけない。たとえ掃除中で花瓶が邪魔だったとしてもだ。戸棚を雑巾で拭くだけの間、ほんの二三分、花瓶を窓の外に置いておくだけのこと。何も問題ないよ、大丈夫だよ。悪魔はそう囁いてくるかも知れない。しかしそういう甘い考えは即座にキッチンのゴミバケツに投げ捨てることだ。悪魔は豚の貯金箱にでも入れて全力で窓から投擲するのが良いだろう。窓の外がどれだけ危険な空間なのか、正確に把握している者は少ない。もし仮に花瓶を窓の外に置くことにしたとしよう。窓を開ける。強い風が入ってくる。悪魔の怒りのような風だ。吹き飛ばされそうになる。雹の混ざった雨が部屋を濡らす。花瓶を取り出して、窓の外まで手を伸ばす。ゆっくりと深呼吸をする。雷の鳴る音が遠くに聞こえる。目を閉じる。手を離す。目を開ける。窓の下を覗き込む。花瓶が割れている。天空から悪魔の哄笑が聞こえる。割れた花瓶の横には倒れている人がいて、頭から血を流しながら、憎悪に満ちた顔で窓の方を睨み付けている。窓の外というのはそれくらい危険な空間なんだ。

 042 : 花瓶を裏返しにしない : 05/02/14

 世の中には二通りの物体が存在する。裏返しにできる物体と裏返しにできない物体である。たとえばビニール袋は裏返しにできる。紙袋もできる。巾着袋もできる。寝袋もできる。手袋もできる。靴下もできる。帽子もできる。シャツもできる。スーツもできる。エプロンもできる。リュックサックもできる。旅行鞄もできる。ブックカバーもできる。段ボール箱もできる。ゴムホースもできる。ゴムタイヤもできる。竹かごもできる。木桶もできる。空き缶もできる。空き瓶もできる。スーツケースもできる。金庫もできる。生卵もできる。ゆで卵もできる。オレンジもできる。バナナもできる。リンゴもできる。パイナップルもできる。人体もできる。骸骨もできる。冷蔵庫もできる。ガスコンロもできる。自動販売機もできる。電柱もできる。建物もできる。都市もできる。地球もできる。宇宙もできる。言うまでもなく、花瓶もできる。割れるかも知れないが、宇宙が裏返しになっているんだ、それくらい気にするな。

 043 : 花瓶を身代わりにしない : 05/02/15

 身代わりはいけない。身代わりはいけない。刀で斬られるかも知れない。槍で突かれるかも知れない。矢を打たれるかも知れない。手裏剣を投げられるかも知れない。縄で縛られるかも知れない。逆さに吊るされるかも知れない。火をつけられるかも知れない。土に埋められるかも知れない。川に流されるかも知れない。山に捨てられるかも知れない。自刃させられるかも知れない。介錯されるかも知れない。身代わりはいけない。身代わりはいけない。

 044 : 花瓶を茶碗にしない : 05/02/16

 お茶を飲む分にはまだいい。そういう使い方があっても良さそうだ。大抵の場合、花瓶は茶碗よりも容積が大きいので、お茶を入れ過ぎたときにも便利だろう。大は小を兼ねるのである。お茶が冷めても気にするな。多少味は落ちるかも知れないが、花瓶が割れるわけじゃない。ただ入れ立てのお茶を飲むときは、火傷しないように気を付けろ。水面をよく見て、ゆっくり慎重に花瓶を傾けるんだ。お茶が口元に落ちる。熱い。うまい。まあその程度のことだ。大したことじゃない。問題は、ご飯を食べるときである。まず盛る人が腹を立てることだろう。どうして私はこんな花瓶にご飯を盛らないといけないのだ。どうして私の夫の髪はあんなに薄いのだ。どうして私はあの日ポップコーン工場に行ってしまったのだ。そしてあの男と出会ってしまったのだ。花瓶には明確な殺意が向けられる。かなりの危機的状況である。これを切り抜けるのは並大抵のことではない。そしてもし仮にこの危機を乗り越えられたとしても、その先には更なる危機が待っている。今度は食べる人が腹を立てるのである。どうして私はこんな花瓶でご飯を食べないといけないのだ。どうして私の妻の腕はあんなに太いのだ。どうして私はあの日ポップコーン工場に行ってしまったのだ。そしてあの女と出会ってしまったのだ。またしても花瓶には明確な殺意が向けられる。もう絶望的だ。花瓶は恐怖に怯える。自分の中からご飯が少しずつ減っていくのを感じながら、両手を組み合わせて神様に命乞いをする。お願いです。どうか私を助けて下さい。いい子になりますから。そして箸がご飯に届かなくなったところで、花瓶の危機は頂点を迎える。箸の折れる音。怒鳴り声。食器。テーブル。棚。痛み。泣き声。花瓶は遥かなるポップコーン工場のことを思う。そこでは雨の日も風の日も無邪気なポップコーン達が純粋培養されているのである。ポップコーン達は何の疑問もなく生まれ、何の疑問もなく死んでいく。花瓶は遥かなるポップコーン工場のことを思う。そこにかつてあった、希望と不安と優しさのことを思う。

 045 : 花瓶をソーサーにしない : 05/02/17

 もしもカップを置くのが楽観主義者であるなら、きっと花瓶の口はカップよりも小さいことであろう。運が良ければ手を離しても何も起こらずに済む。そしてカップをまた手に取ったところで花瓶が倒れて割れる。それを見て慌ててしまい、お茶をこぼして火傷をする。そういうものだ。もしもカップを置くのが悲観主義者であるなら、きっと花瓶の口はカップよりも大きいことであろう。運が良ければカップが花瓶に落ちるだけで済む。そしてそれを飲もうとしたところでお茶を浴びて火傷をする。その熱さに驚いてしまい、花瓶を落とし花瓶は割れる。そういうものだ。どちらにしても、火傷はする、花瓶は割れる。違うのは順番だけだ。

 046 : 花瓶を人質にしない : 05/02/18

 花瓶を人質にしてバスジャックをするのは、あまり賢明な行為とは言えない。第一に花瓶にはバスを運転できる者がいない。世界中のありとあらゆる花瓶に調査がなされたわけではないが、少なくとも花瓶が運転免許証を取得したという記録は見付かっていないようだ。第二に花瓶には生理現象がない。これに関しては手間が掛からなくて済むという一面もあるが、一方で交渉の長期化を許してしまうことになる。花瓶が空腹を訴えて泣き出すことはないのだ。第三に花瓶は威圧されることがない。いつ殺されるかも分からないという恐怖感によって、人質は抑え付けられるものである。恐怖を感じることがない花瓶を制圧するのは容易なことではない。第四に花瓶は人命に匹敵する価値を持ちにくい。もし身代金などを要求しても無視されてしまう危険性がある。これでは単に借りたバスに花瓶を持って乗り込んだだけの間抜けな奴である。第五に花瓶は割れたら決して元に戻らない。人間が相手なら少しばかり手荒な真似をしても、いつか傷も癒えるという保証がある。しかし割れてしまった花瓶が元に戻ることは決してない。もしも自分に向けて打たれた麻酔銃が花瓶に当たってしまったら。バスジャック犯は刑務所の中で自分のしたことを一生後悔し続けることであろう。

 047 : 花瓶を潜水艦にしない : 05/02/19

 それは実に大きな花瓶だった。高さが二メートル半はあるだろう。大の大人が三人は入れそうな大きさだ。真っ白な壁面に模様は一切なく、ただ小さな赤い文字で第一級花瓶型潜水艦紅花白水丸と書かれていた。達筆な字だった。花瓶は甲板の上で横倒しになっていて、その隣には敬礼のポーズで直立不動を崩さない、山本の姿があった。眼鏡が強い日の光を照り返し、白い服が海の風に揺れていた。山本は相変わらずの真面目腐った表情で、何の迷いも疑いもないような目をしていた。どうやら奴は東京に向かって敬礼をしているようだ。もういいだろう、と俺は怒鳴った。山本は俺の方に向き直ると、小さくその坊主頭を下げた。山本は屈み込んで花瓶の中に入り、口に取り付けられた窓を閉めた。俺の方を見て小さく頷く。俺は花瓶を固定していたロープを外すと、花瓶を少し転がしてから水面に向けて蹴り落とした。海に入る瞬間、花瓶の口から中が見えた。山本が笑っていたような気がした。気が狂った奴の考えることはよく分からない。飛沫が上がり、それも消えた。俺は甲板に横になると、よく晴れた空を眺めた。山本の奴は、三時間経っても戻ってこなかったら帰れ、と言っていた。三十分で帰るつもりだった。それでも俺はすぐに眠り込んでしまい、起きたときにはきっかり三時間が経っていた。俺は立ち上がった。何も変わったところはなかった。山本はどうなったのだろう。鯨に食べられたのかも知れないし、水圧で潰れたのかも知れない。花瓶に水が入り込んできて溺れ死んだのかも知れない。しかしそんなことはどうでも良かった。とても暑かった一日も終わろうとしていた。俺は海を見た。そして拳を握った。夕方の海に浮かんでいたのは、達筆な字が書かれた花瓶の欠片と、山本の黒縁眼鏡だった。

 048 : 花瓶をソテーにしない : 05/02/20

 花瓶に塩、胡椒をして、小麦粉をまぶし、バターで炒めようなどと考えてはいけない。フライパンをちょっと激しく動かしたら割れるに決まっている。花瓶を割らずに炒められる確率は、登山の素人が軽装でエベレストを登頂できる確率よりも低いだろう。万が一うまく炒めることができたとしても、お皿にちょっと激しく盛り付けたら割れるに決まっている。花瓶を割らずに載せられる確率は、遠泳の素人が軽装で太平洋を横断できる確率よりも低いだろう。万が一うまく載せることができたとしても、フォークでちょっと激しく突き刺したら割れるに決まっている。花瓶を割らずに食べられる確率は、旅行の素人が軽装で大気圏を突破できる確率よりも低いだろう。とにかく、花瓶をソテーにしてはいけない。何かが確実に間違っている。もう花瓶が割れるとか割れないとか、そういう問題じゃないんだ。

 049 : 花瓶をムニエルにしない : 05/02/21

 ある日、家に帰ると妻がおかしなことを言い出した。花瓶のムニエルが食べたい。何だって。花瓶のムニエルが食べたいの、作って。私は溜息を吐いた。妻がおかしなことを言い出すのは昨日今日に始まったことではない。新婚旅行には南アフリカ共和国のヨハネスブルグに行きたいと言い出した。去年の誕生日はフタバスズキリュウの卵の化石が欲しいと言い出した。クリスマスプレゼントは空を飛ぶトナカイがいいと言い出したことだってある。花瓶のムニエルくらい、特に驚くべきことではないのかも知れない。私は居間の隅に置いていた花瓶を手に取った。先日の旅行の折に青森で見付け、妻が大層気に入ったので買った一品である。逆さまにしたら何故かビー玉と十円玉が出てきた。台所に行き、ボールの中に花瓶を置いて、塩と胡椒を小麦粉を取り出す。下準備を済ませてから、油を引いたフライパンの上に花瓶を置いた。しっかり焼いてからバターを加える。いい匂いだ。夕方の路地裏を歩いている足が止まってしまう匂いだ。そういえば旅行のとき、旅館での夕食に舌平目のムニエルがあり、妻はその料理を大層気に入っていた。なるほど、そういうことか。しかしだからといって、普通は好きな花瓶と好きな料理を同一視するものだろうか。私にはよく分からない。妻は普通なのだろうか。私は普通なのだろうか。私にはよく分からない。私はお皿に花瓶のムニエルを載せて居間に戻る。妻はナイフとフォークを持って待っている。

 050 : 花瓶を食べない : 05/02/22

 私は悪い子なんです。だから死ななきゃって思ったんです。でもどうやったら死ねるのか分からなくて。ほら、映画だと首を吊ったりリスカしたりするじゃないですか。そういうのって怖くて。苦しいのとか痛いのとかは違うなって気がしたんです。薬を使えば楽に死ねるらしいですけど、でも薬とかって手に入れるのに、処方箋ですか、なんだか手続きが面倒らしいじゃないですか。そういうの苦手なんで。それで、身近にあるものを使って死のうって考えたんです。分かりますよね。ほら、チラシの裏をメモ用紙にしたり、マグカップを植木鉢にしたり、ペットボトルをダンベルにしたりするじゃないですか。そういうのと一緒ですよ。先生も身近なものをうまく利用しろって言ってました。それで、洗剤を飲んだら死ねるかなって思ったんです。台所にあったのを飲んだんですけど、我慢できなくて吐き出しちゃって。でも私、それからご飯を食べるのを止めて、色々なものを食べるようになったんです。洗剤は割とすぐに慣れました。レモンの味がしました。色々食べたんですよ。私、家の庭が大好きだったから、花とか草とか土とか石とか食べてみました。でも好きなものを食べて死のうなんて、ちょっと違いますよね。煙草は毒物だって先生が言ってたから、お父さんの煙草を食べてみたこともあります。でも何時間待っても死なないからなんだか腹が立って。先生の嘘吐き。折角マッチ棒まで食べたのに。お箸とかお椀とかも食べてみたんです。カーペットや窓ガラスも食べてみたんです。縫い針も待ち針も食べてみたんです。だけど死ねなくて。色々食べたんですよ。普通なら絶対に死んでますよ。でも死ねないってことは、私は悪い子だから死ななきゃいけないのに、死ねないってことは、あまりに悪い子だから死ぬことも許されないのかなって思って。泣いちゃいました。それから、花瓶を食べることにしたんです。花瓶を手に取ったときに、やっと出口に辿り着いたことに気付きました。花瓶はいつもお母さんが大事にしてたんです。お母さんが死んだとき、一緒に棺桶に入れてあげようかってお父さんは言ってたけど、私は嫌だって言ったんです。花瓶はお母さんの思い出だから。そうです。花瓶は、お母さんは、ずっと私を見守ってくれていたんです。お母さんはずっと私を呼んでいたんです。私が気付いていなかっただけで。花瓶を食べれば私は天国に行けるんです。お母さんが私を天国に連れてってくれるんです。

 051 : 花瓶にそれよりも一回り大きい花瓶を入れない : 05/02/23

 花瓶は非圧縮性であるとする。それは即ち、連続体近似の下で花瓶の各点における質量密度が等しくかつ不変であるということである。もしも質量保存則が成り立つとすれば、任意の微小空間における質量の流入量と変化量は等しいので、積分形式の関係式を得ることができ、そこにガウスの定理を適応することによって、微分形式の関係式を得ることができる。つまり、速度場と質量密度の積の発散が質量密度の時間偏微分の符号を変えたものに等しいことが分かる。これが連続の式である。そして質量密度が空間的にも時間的にも一様であることを仮定すると、速度場の発散が恒等的にゼロになることが分かる。これがいわゆるソレノイダル条件であり、波数空間においてこの条件は速度場と波数ベクトルが直交していることに対応する。しかしそんなことはどうでもいい。とにかく、入らないから、入れるな。

 052 : 花瓶に知恵の輪を入れて気の短い人に渡さない : 05/02/24

 知恵の輪を外さないと花瓶から取り出せない、というものだったら間違いなく割れるだろう。割れない方がどうかしている。もしこれで割れないとしたら、それは花瓶の定義か知恵の輪の定義に反しているに違いない。しかしそうでなくても割れる危険性がある。つまり、花瓶とは全く関係ない知恵の輪が花瓶に入っていて、それを解こうとしてもなかなか解けないので、八つ当たりで花瓶が殴られるという危険性である。もしかしたら知恵の輪がなくても、八つ当たりで花瓶は殴られるかも知れない。とにかく、気の短い人は恐ろしい。

 053 : 花瓶に接着剤を塗らない : 05/02/25

 特に底面には決して接着剤を塗ってはならない。何故か。別に説明するまでもないだろう。突然花瓶が必要になってしまった。どうしよう。花瓶はないのか花瓶はないのか。早く持っていかないと殺されてしまう。急げ急げ。どこにあるんだ。ああ、そこにあったじゃないか。花瓶を手に取る。動かない。どうして動かないんだ。どうしよう。仕方あるまい。大きな斧を持ってくる。刃が少し黒くなっている。花瓶に向かって大きく上段に構える。振り下ろせ。一撃。花瓶は真っ二つになる。ああ、割ってしまった。どうしよう。なんとかしてごまかさないと。花瓶を探すんだ。走り出す。花瓶はないのか花瓶はないのか。早く持っていかないと殺されてしまう。急げ急げ。そういう事態を避けるためにも、花瓶に接着剤を塗ってはならない。

 054 : 花瓶に蝋を塗らない : 05/02/26

 部室に入ると宮本がいた。ソファに座ってテーブルの上で何かしていた。俺は宮本を無視して奥に向かおうとしたが、すぐに呼び止められてしまった。加藤君、僕が何をしているのか、分かるかい。俺は仕方なく振り返った。宮本は異常に物事を根に持つタイプだ。他人に冷たくされるとそのことをやたらと覚えていて、後々までネチネチと恨み言をぶつけてくる。適当に相手をしてさっさと切り上げた方が身のためというものだ。俺は宮本の向かい側のソファに座った。宮本は左手に花瓶を持って右手に蝋燭を持っていた。まあこれくらいなら宮本の行動としては常識的な部類に含まれるのかも知れない。左手に五寸釘を持って右手にカボスを持っていたことがあった。左手にオペアンプを持って右手にテニスボールを持っていたこともあった。左手に日本人形を持って右手に歯車を持っていたことだってある。花瓶と蝋燭なら十分過ぎるくらいに平和だ。加藤君、僕が何をしているのか、分かるかい。花瓶に蝋を塗っている。その通り。宮本はちらりと俺の顔を見た。次にこいつが言い出すことが手に取るように分かった。どうしてそんなことをするのかって聞きたいんだね。どうしてそんなことをするんだ。本当はあまり言いたくないんだけど、加藤君にだけは内緒で教えてあげるよ。俺は久し振りに宮本を殴りたくなった。物理学の実験なんだよ、これは。宮本は蝋燭をテーブルの上に置いた。茶色い花瓶が真っ白になっていた。そういえばその花瓶は確か、去年の部長が卒業の折に部室に寄贈したものだ。何を考えているんだ、こいつは。宮本はゆっくりと花瓶をテーブルの上に置いた。にやにや笑っている。運動量は保存するんだってさ。知るか馬鹿。宮本は右手の人差し指を伸ばす。指が花瓶に触れそうになる。俺は去年の部長の顔を思い出す。きれいな人だった。いつも楽しそうに笑っていた。卒業してしまって本当に悲しかった。慣性の法則が消えてしまえばいいと思った。

 055 : 花瓶にマーガリンを塗らない : 05/02/27

 ペスはね、マーガリンが大好物なんだ。元々はマーガリンの付いたパンをよく与えてたんだけど、いつの間にかマーガリンだけが飛び抜けて好きになったみたいでさ。マーガリンが付いているとペスは何でも食べちゃうんだ。本当だよ。トーストやフランスパンだけじゃない。ニンジンだってカボチャだって食べるんだから。大嫌いなチーズや茹で卵だってマーガリンが付いてると食べるんだ。小石や雑草でもマーガリンが付いていると飲み込んじゃうしね。マーガリンを塗るバターナイフはいつもすぐ洗うようにしているよ。流石にバターナイフを食べたら危ないからね。手綱や首輪にもマーガリンが付かないようにいつも気を付けているんだよ。きっと花瓶だってマーガリンを塗れば食べちゃうと思うよ。いや、本当だって。信じられないのかい。それなら、ほら、僕の手を見てごらん。うっかり指にマーガリンを付けちゃってね。ははは、冗談だよ。ただ時々思うんだよね。ペス自身にマーガリンを塗ったらどうなるのかなって。

 056 : 花瓶に絵具を塗らない : 05/02/28

 病室では母はいつものように花瓶に絵を描いていた。手元には何十本もの細い絵筆が転がっていて、丁寧にそれを使い分けて色を塗っていた。動きは速くも遅くもない独特のリズムを持っていて、ある種の楽しげで軽快な踊りを感じさせるものですらあったけれど、相変わらずその表情には一切の妥協を許さない徹底した真剣さがあった。私は小声で挨拶してベッドの横に座った。花瓶には海があった。大きな雲が浮かんでいて、灰色の鳥が飛んでいた。遠くには帆船が見える。下の方には港町があった。午後の日差しの中で人々は買い物をしたり昼寝をしたりしていた。黄色い花が咲いていた。異国の空はどこまでも青かった。いい絵だと思う。母がこの絵を描き始めたのはもう半年も前のことだ。しかしまだ半分も描き上がっていないそうで、なんとも気の長いことである。この絵が完成したとき、花瓶がどうなるのかを私は知っている。母は大いなる無駄を愛する人であった。慎重に積み重ねて作り上げたものを無残に叩き壊すことを好んだ。秋を潰して編み上げたセーターの毛糸をほどいたことがあったし、寝る間も惜しんで書き上げた長編小説を焼き捨てたこともあった。何故そんなことをするのか聞いてみたことがある。母は笑いながら答えた。別に気に入らないわけじゃないの。ただどんなものもいつかは必ず壊れてしまうでしょう。それならいっそ自分の手で壊してしまえば、後腐れがなくて済むじゃない。分かるような分からないような答えであった。ただその答えが不気味に恐ろしいものに思えて、私はどうしても結婚ができなかった。きっと花瓶を割ることで絵の中の異国は永遠になるのだろう。私が死ぬ前に母が死ぬことで、母の中の私は永遠になるのだろう。母はもう長くない。花瓶の絵を描き切れるかどうかはちょっと判断が難しいところだ。もしも最後まで花瓶が完成しなかったら、母はどうするつもりなのだろうか。それでも母は花瓶を割るのだろうか。それとも私が花瓶を割るのだろうか。私は花瓶の中の絵を見た。白い舗道には女の子を連れている母親がいた。買い物袋を抱えていて、二人とも楽しそうに笑っていた。母は真剣な表情で独特のリズムに乗って絵を描いている。その様子はどこか楽しそうに見えた。私も楽しそうに見えるのだろうか。私は目を閉じると、少し笑って息を吐いた。

 057 : 花瓶に蜂蜜を塗らない : 05/03/01

 松下がまた馬鹿なことを言い出した。熊を捕まえるというのである。ここは確かにちょっと田舎かも知れないし、裏山には野生の動物も棲んでいるだろうが、流石に熊まで生息しているとは思えない。しかし松下はどうしても裏山に行くと言って聞かないので、仕方なく俺も一緒に行くことにした。松下は大きなリュックサックを背負って歩き出した。そりゃ熊を捕まえるのには荷物が必要だろう。しかし猟銃もなく素人が野生の熊を仕留められるものなのだろうか。まあそもそも熊なんていやしないのだから気にしたって仕方ない。裏山は子供の頃と変わらずに草木が生い茂っていて、湿っぽい空気は息が詰まりそうなくらいだった。松下は小道から逸れると奥の林の方に入っていった。俺も背の高い雑草を踏み締めて後ろを歩く。相変わらずこの感覚はちょっと苦手だ。薄暗い木々の中で松下はリュックサックを下ろした。中には花瓶と蜂蜜と刷毛とロープが入っていた。松下は身軽そうにカエデの木に登ると、俺にロープと花瓶を渡すように言った。花瓶をロープの端に結び付けて木の枝に吊り下げる。蜂蜜のビンを開けて刷毛で花瓶に塗っていく。こいつは本気で熊を捕まえるつもりなんだろうか。そんなことをしても虫が来るだけで終わりだ。そりゃもしかしたら虫を食べに大きな虫がやってきて、その大きな虫を食べに動物がやってきて、その動物を食べに更に大きな動物がやってくるかも知れない。でもその連鎖の果てに熊が来るとは俺にはどうしても思えなかった。松下は一心不乱に花瓶に蜂蜜を塗っている。相変わらずこの女の考えることはよく分からない。熊は花瓶を見付けたらどうするのだろうか。俺の中にいる大きな熊は、目の前に吊るされている花瓶を睨み付けて、その真っ黒な手を振り上げた。山の匂いと蜜の匂いがした。

 058 : 花瓶に本を置かない : 05/03/02

 その部屋は足の踏み場もないくらい、床の至るところに本が置かれていた。床だけではない。本棚は言うまでもなく、机の上にも、椅子の上にも、布団の上にも、本が積み重ねられていた。よく見たら中華鍋の中やゴミ箱の中にまで本があった。私は敷居の上に立って、ぼんやりとその部屋を眺めていた。部屋の主は器用にその部屋の真ん中で安座して、明かりもつけずにひたすら本を読んでいた。前髪は長く、眼鏡は汚れていた。相変わらずこの部屋は本ばかりだね。まあ、と彼は本から目を離さずに答える。そのうち君は本に押し潰されて死んでしまうよ。嫌いなものに押し潰されて死ぬよりは、好きなものに押し潰されて死んだ方がましだ。私は肩を竦めた。昔からこの男は私の言うことを聞いたためしがない。私はもう帰ろうかとも思ったが、部屋の隅にあったものを見て、少し引っ掛かってしまった。それは小さな戸棚で、その上には花瓶があった。そこには一冊の本も置かれてはいなかった。花瓶は全体に薄く紅色で、椿の花の絵が描かれていた。花瓶はこの本ばかりの部屋の調和をどこか崩している気がした。どうしてそこには本を置かないんだい。そこって、どこだ。戸棚の上。花瓶があるじゃないか。あるね。花瓶の上に本を置いたら危ないだろう。私にはもう何も言えなかった。相変わらず彼は本から目を離すことなく、部屋の真ん中で安座していた。花瓶の中の椿はこの上なく赤かった。もう夕方も終わろうとしている時刻だった。

 059 : 花瓶に木を植えない : 05/03/03

 久し振りに庭に出て、ああ、と私は思った。それは妻がまだ生きていた頃のことだ。私は知人から苗木をもらってきたのだった。しかし手元には植木鉢がなかった。その頃は私達も都心のアパートに住んでいて、庭など持てるはずもなかった。妻は下駄箱から古い花瓶を取り出してきた。苗木は花瓶の中にすっぽりと入った。その様子は今でもはっきりと思い出せる。植木鉢を買おうと思えばいつでも買えるはずだった。しかし苗木と花瓶の組み合わせは、まるで仲の良いつがいの小鳥のように、もうどうしようもなく引き離しがたいものに思えた。私達はやがて娘と家を持つようになったが、それでも苗木は庭の片隅に置かれた花瓶の中で育ち続けた。いつか苗木を庭に放てばいい。そう考えていた。しかしある日、妻が倒れた。それから先の私達は、あまり幸福ではなかったかも知れない。私達から奪われた団欒は最後まで取り戻すことができなかった。思えば長い月日が流れたものだ。私は庭の隅に行こうとして、途中で立ち止まった。妻は何も言わずに死んでいった。病室に娘は来なかった。今更俺に何ができるんだ。私は家に引き返して夕食の支度を始めることにした。

 060 : 花瓶にボトルシップを作らない : 05/03/04

 斎藤は僕の部屋に入ってくると自慢げに花瓶を見せてきた。なんでも花瓶には斎藤の作ったボトルシップが入っているのだという。来る日も来る日もピンセットを動かし続け、十六ヶ月にも及ぶ努力の果てに完成した労作であるとのことだ。しかし僕にはちょっと信じられなかったので、適当にあしらおうとしたのだけど、斎藤は執拗に食い下がってきた。どうして信じてくれないんだ。だって普通ボトルシップってのは、透明な瓶だからできるんじゃないか、そんな花瓶でできるとは思えないよ。お前は馬鹿か、だから凄いんじゃないか。それにどうして船が完成しているって分かるんだい、もしかしたら部品が無茶苦茶な形でくっついているだけかも知れないじゃないか。それならどうすれば信じてくれる。もういいよ、分かった、信じる、信じるって。嘘を吐くな、どうすれば信じるんだ。ああ、じゃあ花瓶にドリルで穴でも開けてくれよ。そんなことをしたらそこからボトルシップを作ったと思われるじゃないか。知るかよ。もういい、割ればいいんだろ、割れば。誰もそんなことは言ってないだろ。いいよ、割るよ、見てろよ。斎藤はこういう奴である。爪先から脳天まで馬鹿な奴だが、逆上するところは何度見ても飽きない。

 061 : 花瓶に不意打ちを食らわさない : 05/03/05

 やっぱり不意打ちしかないと思うんだ。相変わらずの暗い顔で吉岡さんはそんなことを言ってきた。ほら、野田の奴は身長も体重も結構あるしさ、それに普段から部活で鍛えてるじゃないか。それに比べて俺はこんなだろう。自慢じゃないけど、俺、懸垂ができたことないんだ。だからやっぱり不意打ちしかないと思うんだよ。そうですか、と僕は小さく相槌を打った。吹き出すのを必死で堪えていた。そうだな、この花瓶を野田の奴だとしようじゃないか。まずは笑顔で近付くんだよ。右手を挙げて挨拶なんかしちゃってさ。今までのことは全部忘れることにした、元通り仲良くしようじゃないか、そんな風に思わせるんだ。なるほど。僕は小さく頷いた。でもそんな簡単にうまく行きますかね。行くんだよ、黙って聞いてろ。はいはい。頃合いを見計らって、軽く奴の肩か背中を叩くんだ。射程距離に入るわけさ。そして奴が油断したところで、グサっとね。決まりさ。見てろよ。僕は小さく頷いてから、花瓶を指差した。だけどその花瓶、割れてませんよ。仕方ないだろ。自慢じゃないけど、俺、懸垂ができたことないんだ。きっと不意打ちになってなかったんですね。そっか、気付かれていたのか、どうしてだろう。もう一回やってみたらどうですか。そうする。僕はもう帰りますよ。そうか、今日もありがとな。いえいえ、がんばって下さいね。僕は外に出た。もう限界だった。吉岡さんに聞こえないように声を殺しながら、僕は息を洩らして笑い出した。

 062 : 花瓶にしがみつかない : 05/03/06

 母は未だにあの詐欺師のことを信じているようだ。お札もお守りも決して手放そうとはしないし、教えられた呪文は毎日欠かさずに唱えている。奴は口先三寸で人々からお金を巻き上げ、夜逃げした挙句に些細なことで警察に捕まり、もう裁判も終わって今は刑務所に服役している。それでも未だに奴を信じている人は決して少なくない。お守りの中に入っているのがただの厚紙であることも、清めの塩がスーパーで売っていた化学塩であることも、奴は既に認めている。母が貯金を投げ打って手に入れたあの花瓶が、フリーマーケットで買い集めた二束三文の品であることも分かっている。それでも母はもう、あの花瓶にしがみつかずには生きていくことができない。母は毎朝必ず新品の布巾で花瓶を拭く。奴から買った聖水を使って丁寧に磨き上げる。内側と外側では違う水を使うらしい。一回の作業に最低でも四枚の布巾が使われる。乾拭き、水拭き、水拭き、乾拭き。そして最後には花瓶に向かって深々とお辞儀をする。私はその様子を見る度に心底ぞっとしてしまう。私や妻が花瓶に触れようとすると、母は血相を変えて花瓶を奪い取る。そして必ず嫌な空気が流れるのである。母は決して悪い人間ではない。ただ少しばかり騙されやすかっただけだ。私にはどうすることもできない。妻はあの花瓶を割ってしまいたいという。そうすれば母の目も覚めるだろう、と。確かにそうかも知れない。私は時々、母が風呂に入っている隙を狙って、こっそりと花瓶の箱を開ける。右手には金槌がある。私がその気になれば、私が右腕を振り下ろせば、私達に巣食っている呪いは消え去って、また三人で囲む温かな食卓が戻ってくるのかも知れない。しかし、もしも花瓶と一緒に母の心まで砕け散ってしまったらと思うと、私にはどうしても右腕を振り下ろすことができないのである。私はいつもこう思う。誰かが後ろから私の頭をつかんで、力任せに花瓶に叩き付けてくれたらいいのに、と。

 063 : 花瓶に喧嘩している犬と猫を入れない : 05/03/07

 いえ、私の飼っているペスとミイはいつも喧嘩ばかりしてましてねえ。本当に困ったものなんですよ。血を見ることだって少なくありませんからね。いつも仲良くしなさいって言っているのに。全く。それで、あいつらを狭いところに閉じ込めておけば仲良くなるかもなって思ったんですよ。ほら、お互いのことをよく理解できていないから、喧嘩ってのは起きるわけじゃないですか。そこでね、家に要らない花瓶があったからその中にペスとミイを入れたんです。いや、入ったんですよ。何がおかしいんですか。暴れるペスとミイを花瓶の中に入れて、しっかり蓋をして一晩放っておいたんです。ええ、テーブルの上に置いておきました。それで今朝になって見てみたら、花瓶がなくなっているじゃないですか。テーブルの上にないんですよ。どうしたんでしょうね。誰かが私の家に忍び込んで花瓶を盗んだのでしょうか。分かりませんね。しかしペスとミイはどこに行ったんでしょう。ねえ。一体どこの誰が、喧嘩している犬と猫が入っている花瓶を盗むんでしょうね。

 064 : 花瓶に雨漏りを入れない : 05/03/08

 安田が電話で呼び出してきた。この大雨の中、歩いて一時間はかかる安田のボロアパートまで、今すぐ来て欲しいというのだ。電話はすぐに切れて、俺は心底うんざりした。無視してしまっても構わなかったのだが、もしかしたら病気や怪我で動けないのかも知れないので、仕方なく俺は蝙蝠傘と雨合羽を引っ張り出した。安田のアパートまでは絶望的に遠かった。そりゃ普段なら一時間もあれば着く。軽めの散歩に丁度いいくらいだ。しかし今日はこの大雨である。途中の小川を渡れる自信もなかった。雨の中を歩いていると色々なものが目に入る。傾いた看板、折れた木の枝、泳ぐ蛇。俺は一歩一歩を踏み締めながら歩いた。途中で北原と合流した。北原も安田に呼び出されたらしかった。岸下も西村もいた。俺達は途中から傘を差すことを諦めて、ポケットに手を突っ込んで歩き続けた。やっと安田のボロアパートに着いた。大雨のせいで安田のボロアパートはいつも以上に惨めに見えた。部屋の中には安田がいた。どう見ても病気でなければ怪我もなかった。満面の笑みまで浮かべていた。よく来てくれた、みんな、まあこれを見てくれ。俺達は雫を垂らしながら安田の部屋に入った。そこは相変わらず汚い部屋だったが、珍しいものが中央に置かれていた。それは花瓶だった。安田と花瓶という組み合わせは、アザラシと聖書くらい不自然だ。あるいはキリギリスとミシンくらい不自然だ。それはまあいい。花瓶の用途は一目瞭然だった。天井から雨漏りが落ちてきているのだ。花瓶はそれを受け止めているのである。安田は言った。これは芸術なんだ。五分に一度は水を外に出している。天空から零れ落ちた清らかな雨粒が、きっと地上の人間には真似もできないような、滑らかで美しい形を作ってくれるんだ。俺には安田のしたいことが実によく分かった。他のみんなも同じようだった。俺達は顔を見合わせた。同時に頷いて、安田の顔を見た。俺は安田と花瓶に一歩近付いた。

 065 : 花瓶に夢や希望を入れない : 05/03/09

 夢や希望なんか持つものじゃないんです。あれは悪魔の罠なんですよ。夢や希望なんて、言ってしまえば、高望みや欲張りのことじゃないですか。世の中はどうしようもない馬鹿ばかりですね。有名な画家になりたい、幸せな家庭を築きたい、憧れのレストランに行きたい、ブランド物の洋服を着たい、平和な一生を送りたい。どれも身の程知らずの甘ったれじゃないですか。罠に引っ掛かって抜け出せないでいるのに、そのことに気付いてさえいない。悪魔が架けた梯子を上って辿り着くはずもない高みを目指して、そしてある日悪魔の気紛れで簡単に梯子は外されるんですよ。地の底へまっさかさまに落ちていくんです。哀れですよね。絵描きにはなれず、一家は離散して、残飯を食べ歩き、ぼろぼろの服を着て、虫けらのように死んでいく。私はみんなとは違います。私は悪魔の罠なんかには引っ掛からない。私は私の歩くべき道を謙虚に歩いていきます。悪魔が囁いてきても絶対に返事なんかしません。聞こえない振りをして、見えない振りをして、振り切ってしまえばいいんです。だけど、それでも夢や希望はとても甘く優しいもので、私の心に吸い付いてくるんです。分かっています。悪魔はいつだって、可愛い女の子の姿をして、油断と同情を引き寄せるものなんです。だから私は、夢や希望が自分の背後に忍び寄ってきたら、それらを捕まえて花瓶の中に仕舞い込んできたんです。子供の頃からもう何十年もそれを続けてきたんです。私が大切にしているこの花瓶には、もう何百何千もの私の夢や希望が詰め込まれているんです。でも、それももう限界が来たのかも知れません。もうこれ以上は入らないんです。どうやっても入らないんですよ。これ以上入れたら割れちゃうんです。どうしてですか。私はただ謙虚に生きていきたかっただけなのに。もし花瓶が割れてしまったら、私は一体どうなってしまうんですか。毎日が本当に怖くて怖くて仕方ないんです。私だって、心打つ絵を描く画家になりたかった、仲の良い娘と優しい夫が欲しかった、美味しいディナーを食べたかった、素敵な青いドレスを着たかった、平和で平和な一生を送りたかった。そう言い出せなかっただけなのに。悪魔なのかも知れないけれど、女の子を抱き締めることもできずに、ただこの花瓶に封じ込めてきて。お母様。

 066 : 花瓶に火薬を入れない : 05/03/10

 深夜まで研究室に残っていたら、坂井さんが大量の花火を買い込んできた。なんでも爆弾を作りたいらしい。僕はちょっと呆れてしまったけれど、まあ面白そうなので見ていることにした。坂井さんは慣れた手付きで花火を分解して、中に入っていた火薬を取り出していく。広げた新聞紙の上に落として火薬の山を作る。こんなことして危なくないのかなと思ったけれど、余計なことのような気がしたので口には出さなかった。坂井さんは全部の花火を分解してしまうと、大きく息を吐いて上を向いた。いや、疲れたね、コーヒーでも飲もうか。はい。僕はコーヒーメーカーに向かった。研究室ではいつも僕がコーヒーを入れることになっていた。コーヒーカップ二つを持って戻ると、坂井さんはソファの背に大きくもたれかかっていた。火薬と新聞紙はテーブルの上にあった。はい、コーヒーです。ありがとう。坂井さんが、ずず、とコーヒーを飲んだので、僕も、ずず、とコーヒーを飲んだ。僕は素人だからよく分からないんですけど、どうやって爆弾を作るんですか。うん、火薬を一箇所に集めて導火線を使って火を付ければいいんじゃないかな。もしかして、爆弾の作り方、知らないんですか。知らないよ、あたしはあれを壊したいだけだもの。坂井さんは自分のデスクの方を指差した。そこには花瓶があった。誕生日に彼氏が買ってくれたのだと自慢げに話していた花瓶だ。火薬を入れて、導火線を用意する、あとは河原で火を付けるだけだよ。なるほど、と僕は頷いた。終わったら飲みに行くから、付き合ってくれるね。分かりました。そして僕達は押し黙って、ずず、とコーヒーを飲み続けた。

 067 : 花瓶に涙を入れない : 05/03/11

 女神様はハンスに言いました。いいかい、今お前に渡した花瓶、それが満杯になるまで涙を掻き集めるんだ。ただし、お前自身の涙だけは決して入れてはならない。必ず他人の涙だけを集めるんだよ、いいね。もしも一年以内に花瓶を満杯にできたのなら、お前を永遠に年を取らない者にしてあげる。その日からハンスの旅が始まったのです。ハンスは来る日も来る日も他人の涙を探して歩き続けました。何十もの見知らぬ土地を訪れ、何百もの見知らぬ門戸を叩き、何千もの見知らぬ人々に話し掛けました。ハンスの物語はいつも悲しく美しいものばかりで、聞く人は涙せずにはいられませんでした。その零れ落ちた涙をハンスはすかさず花瓶の中に入れるのです。そして丁重に御礼を言うと、また次の相手を探すのでした。一日として休むことなく、ハンスは人々の涙を集め続けました。晴れの日には涙が飛んでいかないように、雨の日には雨粒が入り込まないように、涙を入れる瞬間以外は決して花瓶の蓋を外そうとはしませんでした。やがて季節が一回りして、約束のときが近付いてきました。どちらももう少しでした。もう少しで花瓶は涙で満杯になるのでした。しかしこれ以上ハンスには涙を集めることができませんでした。人々はもうハンスの話に聞き飽きていて、涙を流すどころか耳を傾けようともしないのです。ハンスは焦りました。しかしどうやっても涙を集めることができません。ハンスは泣きました。そして約束の日の朝となり、ハンスが女神様のところに戻ってきても、花瓶は満杯ではありませんでした。おやおや、ハンス、お前も無理だったのかね。いや、まだ少しだけ時間があります。ほう、まあ確かにね、しかし涙を流す者もここにはいないではないか。いいえ、います。はは、忘れたのかい、お前の涙は決して入れてはならないのだよ。違います、女神様、涙を流すのはあなたです。そしてハンスは悲しく美しい話を始めました。それは疑いようもなく、人間の言葉で語ることのできる、最高の物語でした。果たして女神様の目からは涙が零れ落ちたのです。しかしそれを花瓶に入れることはできませんでした。ハンスもまた、自らの語りに滂沱と涙が流れ落ち、花瓶の蓋を開けることができなかったのです。そしてハンスは全身の力を失って崩れ落ち、花瓶は地に落ちて割れてしまいました。涙が溢れました。女神様はハンスに言いました。勝負は私の勝ちだが、ハンス、お前には負けたよ。お前を永遠に年を取らない者にはしてあげられないが、代わりにお前を一生幸せな者にしてあげる。そして女神様は消え去り、二度と現れることはありませんでした。ハンスが幸せな余生を過ごしたのかどうかは、今となっては明らかではありません。

 068 : 花瓶に血を入れない : 05/03/12

 なあ、ひとつ私と賭けをしようじゃないか。君はこのナイフを使って自分の皮膚の一部を切り裂くんだ。指先でも首筋でも、どこでもいい、好きにしたまえ。傷口からは血が出てくることだろう。その血液をこの花瓶の中に入れるんだ。もしも一時間以内にこの花瓶を君の血で満杯にすることができたのなら、私は君に一生遊んで暮らせるだけの財産を与えようじゃないか。どうだい、やるかね。俺は大きく頷いた。ナイフを受け取ると、小さく息を吸い、手首を軽く切った。赤い血が噴き出す。奴は嬉しそうに笑っている。俺が間抜けに死んでいくところを見たがっているのだ。このサディストが。そうはさせるか。手首からは血が落ちて、花瓶の中に入っていく。俺はじっとその様子を眺めていた。どろりとした時間が流れていった。血液はまだ花瓶の半分くらいしか溜まっていないのに、俺はもう気を失いそうになっていた。新しい傷口を作るときだけ明晰な意識を取り戻すことができた。馬鹿だなあ君は、と奴が言った。何も死ぬことはないじゃないか。何を言ってんだ。命あっての物種というだろう。この野郎。一個の生命は地球よりも重いんだよ。俺の命に値札を付けたのは手前の方じゃねえか。止めるなら今のうちだけどね。誰が止めるか。奴が能弁を垂れている間、俺はひたすら黙り続けていた。可愛い妻と子供達のことを考えていた。あいつらを飢え死にさせるわけにはいかないんだよ。俺は花瓶に落ちる血を見ていた。やがて奴も口を閉ざした。一分と一秒が区別できない、死んだ時間が流れていった。俺は新しい傷口を作った。あと少しで花瓶は満杯になる。俺は確信を持った。大丈夫だ。俺は死なない。賭けは俺の勝ちだ。馬鹿だなあ君は、と奴が言った。後ろから音がした。そして俺の背中を熱いものが走り、花瓶は誰かに蹴り飛ばされて割れた。

 069 : 花瓶に縫いぐるみを入れない : 05/03/13

 部屋に戻ると熊の縫いぐるみが花瓶の中に入っていた。花瓶には穴が開けられていて、そこから両手両足が飛び出していた。頭は花瓶の口の上にあった。私は溜息を吐いた。兄の仕業だ。間違いない。私の兄は少しばかり常識と非常識の境目があやふやになっている方で、よくおかしな真似をしては私達を困らせている。まあその非常識な行動が、食パンの間に白瓜の奈良漬を挟んで食べるとか、靴紐の代わりに断線した電気コードを使うとか、そういった自己完結的なものであるなら別に私も腹を立てたりはしない。兄の人生は兄の人生で、私の人生は私の人生だ。兄が恥を掻こうと首を括ろうと知ったことではない。しかしこの縫いぐるみは私の縫いぐるみで、この花瓶は私の花瓶である。他人が勝手にどうにかすることは許されていない。私は縫いぐるみを花瓶から引き抜こうとした。しかし全力で引っ張ったのにも関わらず、熊は少しも動こうとはしなかった。もしこれ以上の力で熊を引っ張ったとしたら、きっと首が千切れてしまうことだろう。私は花瓶を諦めることにした。花瓶よりも熊の方が大切だ。私は花瓶と縫いぐるみを持って庭に出た。石に向かって構える。夜空を見上げると月がとてもきれいだった。しかし兄はどうやって縫いぐるみを花瓶の中に入れたのだろうか。もしかしたらあの兄は、常人を遥かに凌駕した暴力性を持っていて、それを解消するために奇矯な振る舞いを続けているのだろうか。私は兄のことがまたひとつ怖くなった。そして熊の真っ黒な目が少し憎らしくなった。

 070 : 花瓶に詫びを入れない : 05/03/14

 いや、だから何度も済みませんでしたって言っているじゃないですか。肩がぶつかってごめんなさいねって。どうして何も答えてくれないんですか。そりゃ悪いのは僕かも知れませんけど、少しくらいは何か言ってくれたっていいのに。全く、あなたは冷たい人ですね。ちょっと身体にさわってもいいですか。うわ、本当に冷たいんですね。びっくりしましたよ。まるで血が通っていないみたいじゃないですか。あ、いや、誤解しないで下さいね。別にあなたが血も涙もない奴だとか冷酷無比な人非人だとか、そういうことが言いたいわけじゃないんです。あ、また言っちゃった。済みません済みません。僕は思い付いたことを何でも口に出しちゃうんです。この間もね、聞いて下さいよ、街を歩いていたら凄い人が通り掛かってきましてね。イソギンチャクとフラミンゴとピンクパンサーを足して三で割ったような人なんですよ。いや、本当に。それで僕がその人を見て思わず、うわ、イソギンチャクとフラミンゴとピンクパンサーを足した三で割ったような人だって言ったら、その人、急に泣き出しちゃって。そんなことで泣くなんて、どうかしてますよね。隣にいた女の人は逆に怒り出すし。もう大騒ぎですよ。最後には警察まで出てきましてね。散々怒られました。大変だったんですよ。分かるでしょう。ねえ、何とか言って下さいよ。言って下さいって。無口なんですね。そんなに僕を無視して楽しいですか。僕、本気で怒りますよ。僕が本気で怒ったら怖いんですよ。僕のパンチ、強烈なんですからね。もし食らったらプロレスラーでも一発でノックダウンですよ。いいんですか。殴られてもいいんですか。良くないなら何か言ったらどうですか。ははあ。あなたは本気で僕を怒らせたいんですね。いいでしょう。降りかかる火の粉は払わねばなりません。かかってきなさい。来い。おや、どうして来ないんですか。怖じ気付いたのかな。来ないならこっちから行きますよ。死ね、村岡。

 071 : 花瓶に物差しを入れない : 05/03/15

 算数の宿題は、何か身近なものの長さを測ってくることだった。出題の意図がよく分からないが、まあ宿題というのは概してそういうものである。やっと部屋に戻った私は、ランドセルを下ろして物差しを取り出した。さて、何の長さを測ったものだろうか。私は考えた。あまり大きすぎるのは良くないし、小さすぎるのも良くない。そうだ、居間の隅にある花瓶がいいだろう。私は花瓶をテーブルまで運び、中に入っていたカスミソウをゴミ箱に捨て、物差しをゆっくり入れていくことにした。一ミリ。二ミリ。少しずつ物差しを下ろしていく。物差しは底なし沼に挑む命知らずの若者のように見えた。五ミリ。六ミリ。まだ物差しは底に着かない。思っていたよりも深いようだ。どこまで行くのだろうか。目盛りが十ミリを越えたところで、胸が普段とは違う音を立て始めた。何も問題はない、落ち着け。自分に言い聞かせる。十二ミリ。十三ミリ。私は大きく呼吸しながら、慎重に物差しを動かしていった。物差しの先には何の手掛かりもない。物差しは花瓶の底に向かって確実に進んでいく。とうとう物差しは二十ミリを越えてしまった。そんな馬鹿な。こんなの絶対におかしい。花瓶がそんなに深いわけないじゃないか。私は取り付かれたように物差しを下ろしていった。三十ミリ。物差しを手放してしまわないように、私は物差しを強く強く握り締めた。手のひらに食い込んで少し痛かったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。四十ミリ。呼吸が邪魔だった。鼓動を捨てたくなった。五十ミリを越えた。もうここは私の家ではなかった。六十ミリ。名前のない感情が私の心に巣食っていた。七十ミリ。恐怖。絶望。八十ミリ。どうして。私が。こんな目に。九十ミリ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。とうとう物差しは百ミリに差し掛かろうとしていた。この花瓶は、化け物だ。やっと気付いたのか、愚か者め。花瓶が突然大きな笑い声を上げた。私は驚いて物差しを手放した。乾いた音。急いで花瓶を床に突き落とす。花瓶は粉々に割れて死んだ。私は欠片を強く踏み付けた。不快な音が聞こえて、足の裏から血が出た。大きく息を吐く。椅子に座って、耳を澄ませた。壁掛け時計の音、近所の子供達の声、不明瞭な音楽。やっと戻ってくることができた。私は心底ほっとして、何気なく後ろを見た。ゴミ箱からカスミソウが私を見ていた。

 072 : 花瓶におたまじゃくしを入れない : 05/03/16

 ちょっとお前の銃を貸してくれないか。いや、別に悪いことには使わないって。動物や人間は狙わないよ。生き物を傷付けて遊びたいわけじゃない。花瓶を割りたいんだ。理由ね、まあ話してもいいけど、あんまり気持ちのいい話じゃないからな。分かった、話すよ。もう何年も前の話なんだ。夏だったよ。俺の息子がおたまじゃくしを持って帰ってきたんだ。近くの田んぼで拾ってきたらしくてな。折角だから家で飼おうってことになって、水槽もなかったから水を張った花瓶の中に入れたんだよ。まあそこまでは良かったんだ。ただ俺にはちょっと子供を褒め過ぎるところがあってな、それが良くなかったんだろう。あいつ、調子に乗って物凄い量のおたまじゃくしを集めてきたんだよ。あれは一見の価値があるね。あいつはそれを全部花瓶の中に入れるんだ。そりゃもう、この世のものとは思えない光景だったよ。子供が見るもんじゃない。それで、まあ分かると思うけど、おたまじゃくしは成長すると蛙になるじゃないか。それが逃げ出さないようにって、あいつ、花瓶に金網を被せて固定したんだよ。今思うと、俺はそこで無理矢理にでも止めるべきだったんだな。俺は、あんまり気持ちがいいもんじゃないから、田んぼに放してやれよって言ったんだ。そしたら、あいつ、花瓶をどこかに隠したんだ。絶対に手放したくなかったんだな。俺がおたまじゃくしを捨てるとでも思ったんだろう。分かる気がするよ。問いただしても何も言いやしない。とうとう俺も諦めたんだ。子供に任せたっていいじゃないかって。それから、ずっと俺はその花瓶のことを忘れていた。もう何年も忘れていたんだ。あいつだってすっかり忘れていたに違いない。いや、きっとそうなんだ。昨日だよ、家の縁の下を覗いたら、何があったと思う。俺は、はっきり言って、あれに近付きたくない。何か遠くから奴らを解放する手段が今の俺には必要なんだ。

 073 : 花瓶にキャンディを入れない : 05/03/17

 花瓶から手が抜けないんだよ。阿部は泣き出しそうな顔をしていた。左手で花瓶を持ち、右手は花瓶の中にあった。シュールな光景だ。一体どうしたんだ。花瓶にキャンディが入ってたんだよ。それを取ろうとして手を突っ込んだら、もうどうしても抜けないんだ。お願いだから助けてくれよ。俺は腕を組んで考え込んだ。もちろん阿部が握っているキャンディを手放せば、手は花瓶から抜けるに違いない。キャンディが欲しければ花瓶を逆さまにすればいい。それだけのことだ。しかし俺は真面目な顔をして言った。腕を切り落とすしかないな。俺は台所に向かった。大きな出刃包丁を取り出す。痛いかも知れないが、我慢してくれよ。ちょ、ちょっと待て。大丈夫だ、心配するなって、手当てはしてやる。そうじゃない。何だよ。本当に腕を切り落とすしかないのか、ちゃんと真剣に考えてくれよ。そうだな、腕を切り落とす以外の解決策か。俺は出刃包丁を軽く揺らしながら考えた。よし、指を切り落とそうか。なんでだ。分かった、足を切り落とそう。意味が分からない。それじゃ、頭を切り落とすか。お前はそんなに何かを切り落としたいのか。阿部は不機嫌そうに息を吐いた。もういい、花瓶を割るよ、それしかないだろう。阿部は机に向かって右手を上げた。興奮しているのか、呼吸が荒くなっていた。俺は心の中で舌打ちした。もうちょっと粘ってくれよ。つまらないな。誰が何のために花瓶にキャンディを入れておいたと思ってるんだ。

 074 : 花瓶に体温計を入れない : 05/03/18

 風邪が完治して一週間も経つというのに、体温計は未だに花瓶の中にあった。わざわざ仕舞うのも面倒なので放置してしまっていたのだ。そもそも風邪で寝込んでいてあまりに暇だったので、ここはひとつ体温でも測ってやろうと思い立ち、押し入れの中を引っ掻き回して二時間ばかり宝探しをした挙句、段ボール箱の隅にあった緑色の小物入れの下敷きになっていた体温計を見付け出したのである。因みにそのときの体温は三十七度四分であった。なんて中途半端な。とにかく、折角苦労して見付けたのである、今更元の場所に戻す気にはなれない。どうせまた使うことになるのだ、手元にあった方が便利だろう。そう考えた。それからしばらくは何事もなかった。特に体温計は引っ張り出されることもなく、ひたすら花瓶の中で眠り続けていた。何を考えていたのかは分からない。きっと花瓶の体温でも測っていたのだろう。月日が流れた。そして、また風邪を引いてしまい、また体温でも測ろうと思い立ち、また二時間ばかり宝探しをした挙句、花瓶の中にあるのを思い出して取り出そうとしたとき、体温計の先が花瓶の口に引っ掛かって花瓶は倒れて割れた。

 075 : 花瓶にフランスパンを入れない : 05/03/19

 残業を終えて満員電車に揺られて、コンビニでメロンパンとクリームパンを買い、やっと自分の部屋まで戻った私は、ドアに鍵が掛かっていないことに気が付いた。おかしい。私は割と神経質な人間なので、ドアの施錠は必ず確かめることにしている。どうしても気になってしまい、昼休みに職場から引き返したことがあるくらいだ。断言したっていい、今朝確かに私はドアの鍵を閉めた。しかし今こうして鍵は開いている。何故だ。私は恐る恐るドアを開けて中に入った。明かりをつけて、奥の部屋を覗く。何事もない。窓は割れていないし、クローゼットは開いていない。足跡は付いていないし、預金通帳は盗まれていない。良かった。きっとうっかりして鍵を掛け忘れていたのだろう。それだけのことだ。少し安心する。しかしまだ微かな違和感が残っていた。ハンバーガーに少しだけバニラエッセンスが入っていたような違和感だ。私はその違和感の正体を探るべく、机の引き出しを開け、蛇口からお湯を出し、床下収納を調べ、ビデオテープを再生した。そして、私は気付いた。キッチンの隅に置いていた花瓶の中に、フランスパンが入っていた。そのフランスパンは、昨日帰り道に駅前のパン屋さんで買って、少しだけ食べてテーブルの上に置いておいたものだ。それがどうして花瓶の中にあるのだろう。フランスパンは昨日私が食べたそのままの形で、他に誰かが食べた形跡は一切なかった。つまり、こういうことだろうか。誰かが私の部屋に忍び込み、フランスパンを花瓶の中に入れて帰った。私はどうしようもなく薄気味悪くなって、花瓶を蹴り倒して割り、テーブルでメロンパンとクリームパンとフランスパンを食べることにした。

 076 : 花瓶に霞を入れない : 05/03/20

 この花瓶には霞が入っていましてね。その怪しげな男はいきなりそんなことを言い出してきた。よく晴れた日曜日の賑やかな公園で、僕は暇潰しにフリーマーケットを眺めていた。やがて僕は変なものばかりが置かれているビニールシートに気が付いた。大人の背丈くらいの長さがある万華鏡、指を入れるところが六つある手袋、グリップまで刃になっているナイフ、そんなものばかりだ。僕がそれらの珍品ひとつひとつを観察していると、そこに座っていた怪しげな男が話し掛けてきた。この花瓶には霞が入っていましてね。男は本当に怪しげな格好をしていた。会社員にも自衛隊員にも心理療法士にも見えなかった。浮浪者にも私立探偵にも前衛芸術家にも見えなかった。とにかく男は怪しげな格好をしていた。男の前には小さな花瓶があって、花瓶には紙とセロテープで封がされていた。中国のある高名な霊峰で集めてきた霞です。これを吸った人間はこの世のあらゆる煩悩から解放されて仙人になれると言われています。男はにやりと笑った。蝉のような顔だった。真偽のほどは確かではありませんがね。どうですか、ひとつ。胡散臭いなとは思いながらも、僕はその花瓶を手に取ってみた。中に何かが入っていて、軽く振ると乾いた音がした。どこか蚕の繭を思わせる感触だった。幾らですか。霞だけなら二千円、花瓶も買うなら二万円。高いな、花瓶。僕は特に仙人になりたくもなかったので、霞も花瓶も買わないことにした。男は残念そうな顔をした。蜥蜴のような表情だった。僕は男に背を向けて歩き出した。十秒後、後ろから花瓶の割れる音がした。

 077 : 花瓶に墨汁を入れない : 05/03/21

 私が担当している先生は、必ず原稿用紙に毛筆で文章を書く、昨今には珍しい昔かたぎの文士である。その文字は書道の名人のように美しく丁寧で、一字一字に込められた思いを感じずにはいられない。初めのうちは私もその書き方を不合理に感じていたのだが、先生が文章を書くところを見ているうちにすっかり改心してしまった。字が整っていなければ心は整わず、心が整っていなければ文は整わない。きっとそういうことなのだろう。先生が集中して文章を書いているとき、私はよくその後ろで花瓶を持って待機している。花瓶には墨汁が入っているのである。先生はちょっと変わっていて、花瓶以外の容器には決して墨汁を入れない。硯を見ると怒り出すくらいだ。花瓶の墨汁に筆を濡らして文章を書き、ちょっとでも花瓶の墨汁が少なくなったと感じると、すぐに予備の花瓶と交換する。私は使い終わった花瓶を洗い、また墨汁を入れて、先生の後ろで待機する。こんなことが担当の仕事だとは思えないのだが、まあ先生のお手伝いをするのは苦痛ではない。しかし今日はまずかった。花瓶を洗っていた私は、うっかり手を滑らせてしまい、花瓶を割ってしまったのである。多分先生はまだ気付いていない。先生の集中力には恐ろしいものがあり、文章を書いているときは地震があっても火事があっても洪水があっても、全く動じることがないのである。文章の世界の中に完全に没頭しているか、あるいはこの世から抜け出しているのだろう。私は急いで外に飛び出して、近所の店で花瓶を買い、墨汁を用意した。先生の後ろに座る。先生は私の方を振り向いて言った。君、花瓶を割ったね。どうしてそれを。先生は薄く笑みを浮かべた。私は立ち上がった。先生の手元には、割れた花瓶と、墨汁で真っ黒になった原稿用紙があった。

 078 : 花瓶に醤油を入れない : 05/03/22

 醤油の瓶を割ってしまった。酒瓶やジュースの瓶や牛乳瓶など、手頃な瓶を大量に集めて趣味のドミノ倒しをしていたら、机の上から落ちた醤油の瓶が割れてしまったのである。机の上から落ちるところまでは予定通りであったが、割れてしまうのは流石に計算外であった。更に運の悪いことに醤油の瓶にはまだ中身が残っていた。こぼれた醤油を雑巾で拭き取ったのは良いものの、問題はまだ瓶の中に残っている醤油である。どうやら割れた瓶の破片は入り込んでいないようなので、中身を近くにあった花瓶に移し変えることにした。これで良し。ドミノ倒しを再開しよう。しかし醤油の瓶が割れてしまったために、机の上から落ちる役回りの瓶がなくなってしまった。これでは全体の三分の一しか倒すことができないではないか。仕方ない、代わりを使うことにしよう。机の端に花瓶が置かれた。花瓶も瓶には違いない。再開だ。指先で先頭の瓶を倒す。瓶がどんどん倒れていく。花瓶が倒される。机から落ちる。醤油が飛び散る。

 079 : 花瓶にクッキーアイスを入れない : 05/03/23

 雪合戦をすることになったので、僕は花瓶にクッキーアイスを詰め込んで、大きめのスプーンを握り締めた。台所から居間に顔を出すと、急にコーヒーアイスが飛んできた。慌ててよける。壁に茶色いアイスが広がった。妹は壺を抱えて居間の中央で仁王立ちしていた。左手には僕のと同じ大きめのスプーンがあった。僕もスプーンでクッキーアイスをすくい出して、妹に向かって投げ付けた。妹はそれをひらりとかわして、またコーヒーアイスの砲弾を飛ばしてくる。僕はソファの裏に回ってそれを防ぐ。クッキーアイスとコーヒーアイス。戦力は五分五分といったところだろう。僕はソファに隠れながらクッキーアイスの砲撃を続けた。しかしどうも命中はしていないようだ。相変わらず妹の顔は白く、髪は黒くて、どこにもクッキーのひとかけらも付いていなかった。このままでは弾丸が尽きるのも時間の問題だ。うまく節約しながら、少しずつクッキーアイスで攻撃するものの、効果は実に空しい。とうとう花瓶のクッキーアイスがなくなったので、仕方なく僕は花瓶を投げ付けた。妹も壺を投げ付けてきたところだった。花瓶と壺。やはり勝負はどこまでも互角だ。雪合戦はとても楽しい。

 080 : 花瓶に花を入れない : 05/03/24

 その部屋は壁のいたるところに棚が取り付けられていた。窓と扉を除けば、四方に棚のない壁はなかった。そしてどの棚にも例外なく花瓶が所狭しと並べられ、どの花瓶にも沢山の賑やかな草花が活けられていた。彼女は花瓶のひとつを手に取ると、部屋の中央のテーブルに置いて花を抜き出した。それはもう枯れている花だった。どんな花もいつかは枯れる。そういうものだ。彼女は枯れた花を足元に置くと、新聞紙の包みから新鮮な花を取り出した。それを花瓶に入れて、丁寧に形を整えてからまた棚に戻す。彼女は途方もない数の花々の中で、その果てることのない作業を繰り返していた。花の部屋は、いつだって満開の花々で満たされていなければならない。彼女はそう信じ込んでいるのだろう。彼女は花を愛するひとだった。よく花の中で暮らしていたいと言っていた。ただそれだけのことだったのに。こうなってしまったのは、誰が悪いわけでもない。きっと仕方のないことなのだろう。私はこっそりと花瓶のひとつを手に取って、静かに服の内側に忍ばせた。大丈夫、彼女は花の交換に夢中で、私のことには気付いていない。それに、この夥しい数の花瓶のひとつがなくなったところで、彼女がそれに気付くはずもないだろう。私は部屋の外に出た。もう我慢ができなかった。私にだって怒るときくらいある。私は家の外に飛び出して、全力で裏山を駆け登った。花瓶から草花が零れ落ちた。息が上がり、腹が痛くなった。畜生、畜生。やっと頂上に辿り着いた。沢山の野花が咲いていた。遠くには海が見えた。風景は何も変わっていない。私は花瓶に残った花を取り出して、野花の群れの中に置いた。見上げた空はどこまでも遠かった。私は海に向かって力いっぱい花瓶を投げた。

 081 : 花瓶にちょうつがいを入れない : 05/03/25

 沼田の趣味は何か特定の種類の物を集めることである。つまりはコレクションというわけなのだが、その方向性が少しばかり変わっている。切手や硬貨を集めるなら分かる。酒瓶や食器でもいいだろう。化石や絵画なども悪くなさそうだ。しかし沼田のコレクションはそんな生易しいものではない。たとえば、書類の正誤表。たとえば、注射器のピストン。たとえば、タイトルがぬで始まる書物。たとえば、使用済み藁人形。そういったものを集めているのである。新聞紙の題字を毎日切り取って集めていたことだってある。集めてどうするのかは知らない。きっと集めること自体が目的なのだろう。そんな沼田がまた新しいコレクションを集めたのだという。今度は服のタグでも集め出したのかと思いながら、私は沼田のもとを訪れた。沼田は相変わらず元気そうで、血色も良く、私の二十五倍くらい言葉を話した。今度沼田が集め出したのは、ちょうつがいだという。沼田にしては割と普通ではないかと私は思ったが、実物を目の当たりにして呆れてしまった。どのちょうつがいも一様に恐ろしく錆びれていたのである。十年や二十年ではこんな錆は付かないのではないだろうか。何でも古い建築物が取り壊されたり建て直されたりするときに、作業をする業者に頼んで手に入れてもらうのだという。相変わらず変わったものばかり集めている。それにしても量が半端ではなかった。沼田は何故かちょうつがいを大きめの花瓶に入れていたのだが、それらは花瓶の口から今にも零れ落ちそうになっていた。ちょっと持ってもいいかい、と聞いてみた。いや、と沼田は言う。これは命の次に大切なものだから。沼田には命の次に大切なものが二十八種類くらいあるに違いない。仕方ないな、と私は引き下がった。沼田は明らかに安堵した顔を見せた。そして花瓶を戻しに保管庫に向かった。私は蛇の縫いぐるみのコレクションを眺めていた。何かが割れる音と沼田の叫び声が聞こえた。やっぱり重かったんだろうなあ、と私は思った。

 082 : 花瓶に妖精を入れない : 05/03/26

 妖精を捕まえた。なんとなく屋根に上って昼寝をしていたら、遠くから妖精が飛んできたのである。緑の服に赤い靴で、小さな羽を小刻みに動かしていた。手のひらくらいの大きさしかなかった。妖精は僕に近付くとにっこりと微笑み掛けてきた。僕も微笑みを返した。そして素早く平手で妖精を屋根に叩き付けた。うるさい、と下から怒鳴り声がした。構うものか。意識を失った妖精を握り締めると、僕は部屋に戻って花瓶の中に閉じ込めた。花瓶の口にはハンカチとロープとガムテープで厳重に封をした。妖精にどれだけ力があるのかは知らないが、これを外して逃げるのは容易ではないだろう。僕は花瓶を持って表に出た。いい気分だった。世界一の大金持ちがどれだけの財産を投げ打ったとしても手に入らないものを僕は持っていた。今や僕は世界の中心だ。胸を張って堂々と街を歩いた。目に映るすべての人間がつまらなく見えた。誰もが似たような顔をしていて、区別することができなかった。僕だけは違う。誰も妖精を持っていない。僕は妖精を持っている。僕だけは区別することができる。僕だけは違う。笑い出したくなった。誰も何も気付いちゃいない。馬鹿なんだなあ。僕が屋根の上から下に移動する間に、世界がこんなにも変わってしまったというのに。僕以外のすべての人間は存在の危機に立たされているというのに。死ぬまで分からないんだろうね、と僕は呟いた。あら、よく分かってるじゃない。声が聞こえた。僕は周囲を見渡した。灰色の人々が歩いているだけだ。暖かい日差しの中で寒気がした。僕は足を動かそうとして、足が動かないことに気付き、正面からコンクリートに倒れ込んだ。聞いたことのない音がした。花瓶は割れて、何もない空洞が白昼の明るみに躍り出た。

 083 : 花瓶に水銀を入れない : 05/03/27

 佐川はいつも大事そうに花瓶を抱えている。電車の中でも買い物中でも決して手放すことはない。風呂場やトイレに入るときでさえ、花瓶は必ず目の届く位置にある。花瓶の中には水銀が入っていて、決して軽いものではないのだが、佐川にはそれを持つのが苦ではないらしい。佐川は水銀を自分の心だと信じている。ある日急に心が抜け落ちてしまい、どんな簡単なこともできなくなって、生きることも死ぬことも満足にできず、それでも心が逃げ隠れた先を必死になって探して、やっと見付け出したのだと信じ込んでいる。どうして佐川がそんなことを思い込むようになったのか、俺にはよく分からないし、正直なところあまり興味もない。誰だって自分の心だと信じ込んでいるものくらいあるだろう。そういうことだ。もちろん、常に花瓶と一緒にいないと生きられない女に、まともな人生を歩めるはずはない。佐川はまともじゃなく生きて、まともじゃなく死んでいくのだろう。できるだけ外には出ないようにしているし、出るときは必ず花瓶の口に厳重に蓋をする。息苦しいだろうけど、がんばるんだよ、私もがんばるから。花瓶に向かってそんなことをぶつぶつ言い続けている。俺にはよく分からない世界が見えているのだろう。俺は別に佐川を理解したいとは考えていない。水銀が俺の心じゃないことくらい、よく分かっているつもりだ。ただ俺は、時々佐川が寝ている隙を狙って、花瓶にこっそり水銀を足しておく。佐川は水銀が蒸発することも知らないのだろう。心が蒸発するわけがないと信じ込んでいるのだろう。でも心だって蒸発してしまうものだし、何かを混ぜ続けないと消えてしまうものだ。もしも俺が衝動的にこの花瓶を割ったら、佐川は両手両足を使って水銀を掻き集め、毒物だと知っていても口に含んでしまうことだろう。俺は首を振った。花瓶を窓から放り投げてしまいたくなるときがたまにある。そして、自分がそれをやりかねない人間であることも、俺はよく理解している。

 084 : 花瓶に塩辛を入れない : 05/03/28

 妻は機嫌を損ねると意地の悪い真似をする。リビングの椅子にずらりと化粧品を並べたり、バスタブに蛍光ペンと消しゴムを浮かべたりする。クローゼットにある服がすべて裏返しになっていたことだってある。私はそういった妻の奇行を、特に許容するわけでも拒絶するわけでもなく、何も言わずに受け流すことにしている。妻の機嫌はすぐに変わる。私がむやみやたらと気にして、どうにかするようなことではないのだ。今日も会社から家に帰ると、明らかに妻は機嫌を損ねていた。服のボタンが半分以上取れていたのですぐに分かった。私達は夕食を取ることにした。ご飯が出され、お味噌汁が出され、鯖の塩焼きが出され、おからの煮物が出され、ほうれん草のおひたしが出され、花瓶が出された。私は妻を見た。妻はつまらなそうに言った。烏賊の塩辛が入っています。花瓶の中を覗き込むと、確かに淡い赤茶色のものが見えた。箸を伸ばすものの、花瓶の底には届かない。仕方なく私は花瓶を持ち上げて、ご飯を上で逆さまにした。妻はつまらなそうに私のことを眺めていた。少しずつ塩辛が落ちてくる。私は花瓶を戻す。ご飯を食べて、塩辛を食べて、お味噌汁を飲む。おかずを食べて、また花瓶を逆さまにする。また少しずつ塩辛が落ちてくる。少しずつ。妻の箸は食卓の上に置かれたままだった。また私が花瓶に手を伸ばしたとき、妻は急に花瓶を取り上げて、床に向けて叩き付け、そして食卓に顔を伏せて泣き出した。私は箸を置いて、妻の頭を撫でた。床には花瓶の破片と烏賊の塩辛が飛び散っていた。

 085 : 花瓶に石鹸を入れない : 05/03/29

 森尾さんの部屋からはいつも石鹸の匂いがする。なんでも花瓶の中に石鹸を入れているのだという。どうしてそんなことをするのか僕にはよく分からないけれど、まあひとにはひとの事情というものがあるのだろう。森尾さんが花瓶に石鹸を入れるところを僕は一度だけ見たことがある。朝の九時頃だった。森尾さんは玄関の靴箱の中から石鹸を取り出すと、乾いたまな板の上に置いて包丁で切り始めた。縦に六回、横にも六回。きれいに切れるものだと僕は感心していた。森尾さんは部屋から花瓶を持ってくると、中に入っていた石鹸を生ゴミ入れに捨てて、切り分けたばかりの石鹸を入れていった。ひとつひとつ、四十九回。それが済むと油性ペンを取り出して、花瓶に小さく何かを書き込んだ。よく見てみたら花瓶には沢山の短い縦棒が並んでいた。縦棒は横方向に整った列を作り、どれもが全く同じ長さをしていた。縦棒の行進は花瓶を半周しようとしているところだった。何を見ているの。森尾さんは僕を睨み付けていた。ごめん、と僕は下を向いて謝った。とにかく、森尾さんの部屋からはいつも石鹸の匂いがする。これまでもそうだったし、これからもそうなのだろう。ある日、久し振りに僕が森尾さんの部屋に行くと、そこからは相変わらず石鹸の匂いがしたけれど、花瓶が前とは違う花瓶になっていたのに気が付いた。どうしたのかと聞くと、あれは割ったのだという。あの花瓶はもう終わったからね。新しい花瓶をよく見ると、やはりそこには、油性ペンで書かれた縦棒が並んでいた。

 086 : 花瓶に蜥蜴を入れない : 05/03/30

 寝室から下りて居間に入ると、仕舞い忘れていた炬燵の上に、地味な色をした小さな蜥蜴がいた。私はよく掃き出し窓を開けたままにしておくので、虫の類が入り込んでくることは珍しいことではない。ここはもう山の中といってもいいくらいの片田舎なので、野生の生き物達としても人家が珍しく興味深いのだろう。私は蜥蜴を指先でひょいとつまみ上げた。蜥蜴は暴れるものの、逃げ出すことはできない。そのまま窓の向こうに放り投げても良かったのだが、私はなんとなく戸棚の上にあった花瓶の中に蜥蜴を入れた。蜥蜴は這い上がろうとしてきたので、上に漢和辞典と夏蜜柑を置いて蓋をした。どうしてそんなことをしたのかは自分でもよく分からない。醤油が切れ掛かっていたためかも知れないし、読書の調子が悪かったからかも知れない。あるいは今朝の夢に死んだ弟が出てきたのが良くなかったのかも知れない。まあしかしどんな理由でも大差はないのだろう。私は朝食を取ってから畑仕事に出掛け、日が暮れてから家に戻った。相変わらず花瓶は居間の戸棚の上にあって、漢和辞典にも夏蜜柑にも変化は見当たらず、まるでこの家が出来たときから花瓶がそこにあったかのようであった。また朝が来て、夜が来る。私は意図的に蜥蜴のことを考えないように努めることにした。今更蜥蜴を解放する気にはなれなかった。もし蜥蜴が何らかの理由によって解放されるとしたら、それは私の意図を飛び越えた理由によるべきだと考えた。やがて収穫の季節が訪れ、私も忙しくなり、そしてまた忙しくなくなった。そしてその頃から、私はわざと戸棚の前で注意力を落とすようになった。ついうっかりして花瓶を割ってしまいたかった。自分の思惑や責任と関係しないところで、あの小さな蜥蜴を解放してやりたかった。夏蜜柑はもうすっかり萎んでいた。とうとうある日私は観念して、戸棚を引っ繰り返すことにした。隣人との囲碁に連日負け続けたために、堪忍袋の緒が切れて戸棚を引っ繰り返したら、上にあった花瓶が割れてしまった。そういうことだ。私は力いっぱい戸棚を引っ張った。重い戸棚の端が浮かんだ。夏蜜柑が転んだ。漢和辞典はあらゆる漢語を知悉したような顔をして、真面目そうに私のことを眺めていた。

 087 : 花瓶に心を入れない : 05/03/31

 花瓶に心を封じ込めてしまった日から、彼女は人間として生きることを止めてしまった。指を折って数を数えることも、二本の足で立って歩くことも、意識せずに息を吸い込んで吐き出すことも、自分が誰であるかについて考えることも、もう彼女にはできなくなってしまった。燃え盛るような夏のことだった。彼女は一日中ベッドの上に横になり、何の模様もない天井や壁を眺め、恐ろしく長い時間をかけて最小限の食事をした。食事の内容を認識することも、右手でスプーンを握ることも、食事に向かって手を伸ばすことも、スプーンを口に入れることも、咀嚼することも嚥下することも、決して容易なことではなくなっていた。それでも彼女は確実に自分の仕事を片付けていった。長距離走の選手が果てしない距離を走り続けるように、彼女は途方もない粥を食べて絶望的なスープを飲んだ。そして朝食が終わった頃にはもう昼食の支度が始まっていた。そんな日々の繰り返しだった。医者はいつも首を振って気休め程度の薬を置いていった。見舞い客は枕元にあるタオルに向かって慰めの言葉を投げ掛けた。どうして彼女は花瓶に心を入れてしまったのか、皆はよくそんなことについて話し合った。誰かは言った、臆病者には臆病者なりの自殺の方法があるんだよ。誰かは言った、恋人の命と天秤にかけて美しい決断をしたんだよ。誰かは言った、死神が人間を殺すには大鎌を振るう必要はない、その姿を見せるだけですべての人間は意のままに操られてしまうのだ。誰にも本当のことは分からなかった。そして誰にもどこに花瓶が隠されてしまったのか分からなかった。彼女は一日に一文字ずつ字を書き、花瓶に心を封じ込めたことを皆に知らせたのだった。どこに花瓶があるのかと尋ねても、彼女は何も答えようとしなかった。花瓶の居場所を知っているのか知らないのか、その様子から判断することはできなかった。花瓶には膨大な額の懸賞金が掛けられ、誰もが血眼になって花瓶の行方を探したが、彼女の心を見付け出したものはいなかった。冬が来たら何もかもが終わってしまうことは分かっていた。それでも海に入ろうとする者は日に日に少なくなり、夜は少しずつ闇の色合いを濃く深くしていった。そんなある日、寝ている彼女の元に窓から何かが忍び込んできた。シャボン玉だった。シャボン玉は彼女の傍をふらふらさまよっていた。すぐに割れることは分かり切っていた。しかし彼女は全身全霊の力を込めて、左腕をシャボン玉に向けて伸ばした。彼女はシャボン玉を手に取った。そしてゆっくりと胸に抱いた。シャボン玉は彼女に吸い込まれていった。世界のどこかで花瓶が割れた。彼女は起き上がり、大きく伸びをして、ベッドから床に下り、仁王立ちして笑い出した。その日から秋が始まった。

 088 : 花瓶にすがりつかない : 05/04/01

 花瓶にすがりつくようになったら終わりだ、と私は考えていた。兄は先月死んだ。仕事の心労が原因だったらしい。花瓶にすがりつくようになって、一週間と持たなかったそうだ。棺桶の中にいた兄はすっかりやつれていて、実際よりも十は年嵩に見えた。死んだ父によく似ていた。兄嫁も夫の死に気が弱っていたのか、通夜の最中から花瓶のことを気にしていた。次はこのひとか、と私は少し気の毒にもなったが、巻き添えを食らうのは御免だった。私は死にたくなかった。花瓶にすがりつくようになったら終わりだ。祖母と父が花瓶にすがりついて死んでからというもの、私は自分が花瓶に殺されることを恐れるようになった。それから私はずっと自分の人生から花瓶を排除するように努めてきた。兄だってそうしてきたはずだ。しかし兄は花瓶から逃げ切れなかった。いや、本当に兄が逃げ切れなかったのは花瓶ではなく、仕事とか家族とか友達とか健康とか、そういった細々とした係累の積み重ねであったのかも知れない。誰もが少しずつ兄を追い詰めて、花瓶は慈悲深くとどめを刺した。そういうどうしようもない筋書きのようにも思えた。私には家族はいないし、友達もいない。定職にも就いていない。健康についてはよく知らない。それらはすべて、花瓶から逃れるためだ。私は自分の人生にできるだけ関心を持たないようにしていた。考えてしまったら追い詰められる。追い詰められたらすがりついてしまう。そういうことだ。死んだように生きろ。生きようとしたら死ぬぞ。父は死ぬ前に私達にそう言った。父が花瓶にすがりつくようになった原因は父の愛人にあるらしかったが、私はその愛人の顔にも名前にも興味を持たないようにした。知るな。考えるな。忘れろ。逃げろ。私はずっと自分にそう言い聞かせていた。花瓶にすがりつくようになったら終わりだ。やがて兄嫁の訃報が届いたが、私は葬式に顔を出さなかった。夕方に目を覚まし、明け方に寝た。数週間後、私の元に宅急便が届いた。形見だ。そこには花瓶があった。兄夫婦がすがりついた花瓶だ。私はその花瓶に手を伸ばし、手を伸ばし、近付いて、顔を寄せて、そして、触れた。ああ。みんな。やっと出会えた。温かいね。ぬくもり。ああ。ありがとう。ずっとこのまま。こうやって静かにゆっくりと死んでいくのも。そうか。そうだね。いや、今すぐ死ね。私は舌を強く噛み締め、右の拳で花瓶を叩き壊した。

 089 : 花瓶にプリンを作らない : 05/04/02

 できるだけ大きいプリンを作りたいんだよ。夜中になってから千坂はそんなことを言い出してきた。作ればいいじゃないか。俺は床の上で足の爪を切りながら答えた。いや、だから花瓶を使わせてもらってもいいですか。俺は千坂を見上げた。相変わらず丸っこい顔がそこにはあった。お前は花瓶でプリンを作るのか。千坂は小さく頷いた。唇の端を少しだけ噛んでいた。俺は目を閉じて少し考えてから答えた。お好きなように。千坂の嬉しそうな声が聞こえた。花瓶を取る音、台所に向かう音。俺は小さく笑って息を洩らした。台所の床には、牛乳、卵、砂糖、バニラエッセンス、蜂蜜、生クリームが並んでいた。千坂が俺には手順のよく分からない作業をしている間、俺は布団に横になって詰め将棋の本を眺めていた。プリン作りと詰め将棋。変な組み合わせだ。台所からはいい匂いがしてくる。問題は難しくてなかなか解けない。俺は独り言を洩らし始めていた。違うんだよな、違うんだ。頭の中を意味のない言葉が走り回っていた。分からない。どうしても分からない。俺は頭を掻いて台所を見た。千坂は花瓶に生地を流し込んでいた。オーブンに入れて設定を済ませる。大きいからやっぱり一時間くらいかかるかなあ。腕を組み合わせてそんなことを言っていた。大きいからやっぱり一時間くらいかかるかなあ。それがヒントか。いや、違うって。俺は起き上がって千坂の横に行き、オーブンの中を覗き込んだ。オレンジ色の光の中で回転している花瓶があった。奇妙な光景だ。オレンジ色の光の中で回転している花瓶があった。それがヒントか。いや、だから違うって。俺には分からなかった。詰め将棋の答えと花瓶でプリンを作る人間の気持ちが分からなかった。ちょっと出かけてくる。俺はサンダルで外に出て、近所をゆっくりと歩いた。時間が静かに流れていった。茶色い猫が古い家の軒下で寝ていた。トラックが大通りを走る音が聞こえた。公園では背の低い木がふわりと揺れていた。俺はベンチに座り、足で駒を動かした。そうじゃないんだよ、そうじゃない。頭の中を意味のない言葉が走り回っていた。分からない。どうしても分からない。親指の爪を噛んだ。自分はこんなに頭が悪かっただろうか。やがて俺は諦めて立ち上がり、しばらく散歩してから部屋に戻った。千坂はまだオーブンの前で腕を組み合わせていた。オーブンの口は開いていた。うん、良さそうだよ。悪いんだけど取り出してくれますか。俺は鍋つかみを手にはめて、オーブンから花瓶を取り出した。甘い匂いが胸に広がった。千坂はとても楽しそうに笑っていた。花瓶の口には黄色いものがあった。プリンがぷるんと震えた。あ、そうか。俺には何もかもが分かってしまった。力が抜けた。花瓶が落ちた。千坂が叫んだ。桂馬が走った。

 090 : 花瓶に泣かない : 05/04/03

 あの日、先輩は夕方の教室で泣いていた。床の上で青い花瓶を抱き竦めていた。小さな背中が震えていた。何があったのか僕には見当も付かなかった。僕は教室の中に入って、ゆっくり窓際まで歩いた。先輩は僕に気付いたのか、身を起こして椅子に座った。まだ呼吸が乱れていた。僕は遠くの山に沈んでいく夕陽を見た。悪くない夕暮れだった。校庭では野球部が熱い練習をしていた。下校中の生徒が歩きながら雑誌を読んでいた。カラスが空に見事な一本の線を描いた。僕は窓枠にもたれかかって、そんな罪のない光景を眺めていた。変なところを見せたね。僕は先輩の方に向き直った。先輩は小さな鏡に向かって髪を直していた。もういつも通りの先輩に戻っていた。デリカシーのない真似をして済みません。いいんだよ、こんなところで泣いてたら誰だって気付くって。先輩は鏡を鞄の中に仕舞い込んだ。どうしても誰にも見付かりたくないなら、トイレの中に閉じこもって泣けばいいんだ。先輩は机に頬杖を突いた。つまらなそうな顔をして窓の向こうを眺めていた。そうですね、とも言えず、僕は教室の天井や床を見た。何も話題に出せるようなものは見付からなかったので、僕は組み合わせた自分の手を見ていることにした。どうして泣いてたんですか。デリカシーのないことを聞くんじゃないよ。先輩は立ち上がって大きく伸びをした。そして足元にある青い花瓶を拾い上げた。誰にだって事情はあるもんだよ、トイレの中で泣くわけにはいかない事情だってあるんだ。先輩は僕の隣に来て、窓枠に手を突いた。もう夕陽は半分以上が山の陰になっていた。僕と先輩はじっとその夕陽を見つめていた。風は止んでいた。秋の匂いがした。どれくらいの時間が経っただろう。夕陽が少しずつ細くなり、オレンジ色の光も心許なくなって、夕暮れが確実に夜に飲み込まれて、そして、とうとう太陽が完全に姿を消した、その瞬間、先輩は青い花瓶を放り投げた。バイバイ。花瓶は校庭に落ちて割れた。

 091 : 花瓶を憎まない : 05/04/04

 私はその緑の花瓶が憎くて憎くて仕方なかった。花瓶は私のすべてを奪い去り、私の人生を台無しにした挙句、何の悪意もない顔をして、更に私を苦しめていった。花瓶には不思議な力があった。それは人々の腹の底にある大切なものを鷲づかみするような力だ。花瓶を目にした者は誰もが即座に虜となり、そして花瓶目当てに私に近付くようになった。仲の良い友達も、仕事の同僚も、家族でさえも、花瓶を心の底から褒め称えるようになり、そして私を見ることを止めてしまった。私に話し掛けてくる人は誰もが花瓶のことを話題にした。私に優しくしてくれる人は誰もが花瓶を目的としていた。もう誰も私のことを必要としていなかった。だから私は花瓶を割った。金槌で粉々にして、鉄下駄で踏み付けて、北の海に投げ捨てた。もうこれで何もかもが終わるだろうと思っていた。人々は多少離れていくのかも知れないけど、やっとまともな人生に戻れるのだと信じていた。しかしそれでも人々は私の近くから離れようとはせず、それどころか余計に寄ってくるようになった。そして誰もがおかしなことを言い出した。君には光り輝くものがある。君からはいい匂いがする。君には神様が宿っている。あの花瓶は、ただの花瓶だ。税込み四百円で買った安物だ。何か謂れがあるわけでも、高名な陶芸家が焼いたわけでもない。光り輝くものでも、いい匂いがするものでも、神様でもない。どこかの工場で作られて、街の雑貨屋に並んで売っていた、本当にただの花瓶だ。それでも花瓶は、もうどこにも存在していないというのに、未だに人々の温かい心をその手中に収めている。どうすればいいのだろう。人々が私の目を見るとき、突き刺さってくる言葉がある。まあ仕方ないじゃないか。間違いを犯さない人間はいないよ。さあ立ち上がろう。花瓶を割ったことをそんなに悔やまないで。私は孤独だ。仲間も敵ももういない。それでも、今も花瓶は、何の悪意もない顔をして、子供が蛙を殺すように無邪気に、私を苦しめている。どうすればいいのだろう。私は緑の花瓶が憎い。

 092 : 花瓶に頼らない : 05/04/05

 子供の頃の私は黄色い花瓶に頼ってばかりだった。生まれたときからずっと花瓶は私の傍にいて、困ったことがあると私はすぐ花瓶に助けを求めた。近所の男の子に虐められたときは泣き付いて、眠れない夜には朝まで一緒に起きていてもらった。そういう依存的な関わり方が悪かったことは分かっている。だけど子供の頃の私には確かな分別などなく、花瓶に対してどう接するべきか知らなかったのだ。だから私は花瓶に頼った。水が低きに流れるように、煙が空に立ち昇るように、私は花瓶に頼った。そういうことだ。やがて私の背は伸びて、髪は短くなり、ギターも上達した。ピアスの穴を開けるようになり、本棚には文庫本と漫画が並んだ。それにつれて花瓶に頼ることも少なくなっていった。花瓶が私に呼び掛ける。私は面倒臭そうに返事をする。つまらない空気が流れる。花瓶の立ち去る足音が聞こえる。そんなことの繰り返しだ。仕方なかったのだろう。蝉だって七年も経てば土の中から出ていく。誰もがいつまでも同じようにはいられないのだ。そのうち花瓶の方も私を避けるようになっていった。買い物を自分で済ませるようになり、部屋のドアはノックされなくなった。私は私で少しずつ自分の世界を広げていった。ミネラルウォーターの味の違いを知り、ジーンズにミュールで街を歩き回って、楽譜に音符と用語を書き込んだ。いや、それは結局のところ、箱庭の川や石にこだわるような偏狭なものでしかなかったのかも知れない。とにかく、私は自分の世界から花瓶の存在を排除することに努めた。自分を支配しようとするものから少しでも逃れたかった。大学受験の直前は死ぬ気で勉強した。食事もそこそこに家を出る私のことを、花瓶は心配そうに見ていたが、結局何も言われることはなかった。受験して、合格した。都会に出ることになった。私はもう何年もこの日が来るのを待っていた。花瓶は新幹線のホームにまでついてきて、寂しそうに手を振って私を見送った。新幹線のシートで私は長い長い溜息を吐いた。何年分もの溜息を全部吐き出したら、あまりに気持ち良くて涙が出てきた。三年後、黄色い花瓶が割れたという報せが部屋に届いたが、そのとき私は海外旅行に出掛けていて、花瓶の訃報を知るには二週間を待たねばならなかった。

 093 : 花瓶を笑わない : 05/04/06

 奴は間違いなく馬鹿だった。馬鹿以外の何者でもなかった。ねえねえ、良かったらうちに来て、うちの花瓶さまでも拝んでいかないかい。学校帰りにそんなことを言い出す奴に馬鹿じゃない奴がどこにいるんだ。俺は吹き出すのをなんとか堪えて、真面目な顔を取り繕ったまま答えた。まあいいけど。奴は嬉しそうに笑って小さく手を振った。良かった良かった、君も花瓶さまに気に入られるといいね。いやいや良くねえよ馬鹿。俺は何も言わずに小さく頷いた。奴の家はやたらと大きな日本家屋で、玄関先に立派な松の木があるだけでなく、小石が敷き詰められた庭まであった。母親は妙にゆっくりとした動きをする方で、高そうな薄い橙色の着物を着ていた。いらっしゃいませ、どうぞ御遠慮なくね。俺は頭を下げて靴を脱ぎ、きちんと向きを直した。まあ、まずは花瓶さまをご覧になって下さいな、私はお茶とお菓子の用意でもしていますから。俺と奴は奥に向かって板張りの廊下を歩いた。随分と奥にあるんだな。そうだね、花瓶さまは外の空気が苦手なんだ。騒音や振動も良くない。だから奥座敷に安置しておかないといけないんだよ。ふうん。その部屋は畳が八畳敷かれた古めかしい和室で、今は真昼間だというのに本も読めないほど暗かった。花瓶さま、ただいま帰りました。奴は正座になり神棚に向かってお辞儀をした。どうやら花瓶さまとやらは神棚に飾られているようだった。お初にお目にかけます、こちらは僕の友人でございます。おいおい俺とお前がいつ友達になったんだよ。俺は少しだけ息を洩らした。花瓶さまをよく見ようと、俺は神棚に近付いた。だ、駄目だよ、花瓶さまには正月以外近付いちゃいけないんだ、うちの決まりなんだよ。俺は構わずに神棚の前に立った。確かに花瓶がある。橙色の花瓶だ。俺にはそれに見覚えがあった。間違いない。何度も見ているからしっかりと覚えている。俺はとうとう我慢ができなくなり、思いっ切り吹き出してしまった。奴は当惑顔で俺を見ていた。おいおい、これ、百円の花瓶だよ。間違いない。俺んちの隣、百円ショップだから。なんでこんなものを御大層に崇めてるんだよ。お前、馬鹿だろ。お前らみんな、馬鹿だろ。俺は腹を抱えて倒れ込んだ。拳で何度も畳を叩いた。奴は相変わらず馬鹿そうな顔をして、俺のことをじっと見ていた。あの、悪いんだけど、帰ってくれないかな。何が花瓶さまだよ。俺は笑いながら立ち上がると、神棚に向かって手を伸ばした。叫び声がした。後ろから衝撃が走った。俺は正面に倒れて、頭から壁にぶつかった。地面が揺れた。橙色の花瓶が落ちてきて、俺の頭に当たって割れた。

 094 : 花瓶に逃げない : 05/04/07

 あらゆる対人関係に絶望した彼は、花瓶に逃げ込んでしまった。赤い花瓶を抱きかかえたままベッドに横になり、日に二十三時間から二十四時間ほど眠った。夜中の三時頃に起き出しては、水を飲み、トイレに行き、庭を眺め、クラッカーをかじり、また横になった。亡霊のような姿だった。そこにはどんな種類の思想も哲学も見えなかった。きっと彼にとっては起きているときの方が夢の世界だったのだろう。娘は二度だけ彼が話すのを聞いた。素敵な王国があってね。聞き取りにくい、妙に掠れた声で、淡々と彼は話した。この花瓶の中には素敵な王国があってね、私はそこでパン屋の主人をしているんだ、毎日沢山のお客さんが来てくれてね、とても楽しいんだよ。そう言い残して彼は再び眠りに就いた。多分、話した相手が自分の娘だったことも分かっていなかっただろう。季節が変わり、秋が冬になっても、彼に変化はなかった。髭が少し伸びたくらいだった。娘は毎日点滴の袋を取り替えた。寝ている彼と赤い花瓶を見て、悲しそうに首を振った。フォトフレームは伏せられて、ピアノには埃が積もっていた。寒い冬だったので娘は自分のためにシチューを作った。ブロッコリーを茹で、ジャガイモを煮込み、セロリを入れた。熱いミルクシチューはとても美味しかった。風の強い夜だった。空腹で目が覚めたのでシチューを温めていると、起き出した彼がふらりとやってきた。テーブルの椅子に座り込んで、ぼんやりと床を眺めていた。娘はスープ皿にシチューを盛り、自分の席に座って食べた。温かいシチューだった。こっちは寒いね。彼はそう言い、娘の方を見た。娘は数ヶ月振りに父が自分を見ていることを知った。花瓶に逃げ込むずっと前から、彼は娘を見ることを止めていた。こっちは寒いね。とても寒い。どうしてこんなところに住んでいたんだろう。彼は不思議そうに首を傾げた。こんなところにいても仕方ない。彼は立ち上がり、寝室に向かった。お前もうちのパン屋に来ればいいのに。娘はスープ皿を片付けて、再びベッドに入った。なかなか眠れなかった。その三日後、彼はいなくなった。家のどこを探しても見当たらず、服も靴もそのままだった。ベッドの上には花瓶があった。お前もうちのパン屋に来ればいいのに。少しだけ笑った。娘は花瓶にシチューを入れて、父の席にそれを置き、スープ皿にシチューを盛って、自分の席にそれを置いた。娘は心行くまで美味しいシチューを食べた。それから花瓶の中のシチューを捨てた。赤い花瓶は燃えないゴミに出されて割れた。

 095 : 花瓶を覗かない : 05/04/08

 秋野はよく花瓶の中を覗き込んでいた。秋野の部屋、オレンジのカラーボックスの上に置かれていた、紫色の花瓶だ。お気に入りのクッションに座ったまま、手を伸ばして花瓶を取って、中を覗いてから元に戻すこともあったし、わざわざ立ち上がって中を覗き込み、両腕を広げて背伸びしてから、またクッションに座り込むこともあった。秋野が花瓶の中の何を見ていたのか、僕にはさっぱり分からなかった。僕がいつも座る位置から花瓶の中を見るのは難しかったし、カラーボックスのところまで歩くような理由も見当たらなかったからだ。それに、他人の花瓶の中を覗き込むというのはひどく行儀の悪いことのように思えたので、僕は花瓶に興味がない振りをしていた。秋野は悪い子じゃなかった。多少暴力性の過ぎる父親と他人に興味の薄い母親の間に生まれ育ったため、少しばかりひねくれた人格を持ち合わせていたけれど、僕は秋野のそういうところが嫌いじゃなかった。でも花瓶については、僕はうまく受け止めることができなかった。別に不快だったわけじゃない。秋野が花瓶を覗き込むことと自分がここに存在していることが、どのように関係するのか分からなかっただけだ。今日も秋野は花瓶の中を覗き込んだ。洗い物の最中にキッチンから出てきて、まっすぐカラーボックスのところまで歩き、花瓶の中を覗き込んだ。僕は、少しばかり機嫌が悪かったので、聞いてみることにした。何をしているの。秋野は僕の方を振り向くと、目を大きく見開いて言った。え、何、何かあったの。いや、何もないよ。あ、そう。秋野は大きく溜息を吐いた。じゃあ、何。花瓶の中に何があるの。何もないよ、ほら。花瓶を手に取ると、無造作に僕の方に放り投げた。慌ててキャッチする。花瓶の中を覗き込んだ。紫色の花瓶の中には、何も入っていなかった。ただ紫色の花瓶の中があるだけだ。ドーナッツの真ん中くらい、そこには何もなかった。僕は秋野に花瓶を返した。どうしていつもこれを覗き込むの。ん、他人に説明するのはちょっと難しいんだよね。花瓶をカラーボックスの上に戻すと、秋野は腕組みをして呟き始めた。待ってるのかな、いや、それも違うのかな、ううん。右の人差し指で何度も額を叩く。別にこの花瓶である必要はないんだけど、とにかく花瓶が必要だというか、ええとね。秋野は困っていた。微積の問題を出された中学生のような顔をしていた。僕は少し自分が情けなくなった。よし、じゃあ明日になったら教えてあげるよ。明日にはきちんと説明できると思うから、それまではちょっと待ってて。秋野はそう言うと、キッチンに消えた。僕は白い壁を睨み付けて、ベランダに出た。翌日、寝惚けていた秋野は手を滑らせて紫色の花瓶を割ってしまったのだけど、特にショックを受けている様子もなく、あちゃあ、とだけ言って、僕達は二人で黙々と割れた花瓶の処理をした。

 096 : 花瓶に隠さない : 05/04/09

 あたしんちにね、花瓶があったんだ。藍色の花瓶。お母さんが買ってきたんだけど、あのひと飽きっぽいひとでさ、結局花瓶として使ったのは二回くらいだったんだ。それで、その花瓶は茶箪笥の上に置いてあったんだけど、あたしは割とその花瓶が気に入っていたから、こっそりあたしの部屋に持っていって、本棚の奥に隠したの。ほら、本が増え過ぎると本棚の一段に本を二列並べるようになるよね。あんな風に見せ掛けて、実際には奥に本なんか並んでないのに、手前の方に本を並べて奥に花瓶を隠したわけ。お母さんは絶対に気付いてなかったよ。買ってきた張本人なのにさ、あのひとはそういうひとなんだ。それでね、本棚の奥の花瓶を時々眺めては、変な満足感を覚えてね。ほら、やっぱり誰も知らない何かをするってのは、本能的に楽しいことなんだよ。それでね、あたしは単に花瓶を隠すだけじゃなくて、その中にも何かを隠そうって思ったんだ。そうすれば秘密に秘密を重ねることになる。今よりももっと楽しくなるって思ったんだ。隠したんだよ、大切にしていたものを。子供の宝物だよ。でも、分かると思うんだけど、子供にとっての宝物ってのは大人にとっての宝物よりも、ずっと大きい意味と価値を持つんだよ。宝物は、少なくともあたしにとっては、本当に大切で、必要で、不可欠で、それがない毎日なんて考えられないくらいだったんだよ。あたしは自分が生きている証を隠していたんだ。でもね、ある日、それが終わった。何の前触れもなしに、ある日、ふっと消えてしまったの。花瓶の中を見たら、何も入ってなかった。本当に、何も、入ってなかったの。煙みたいに、消えてしまったんだよ。探したよ。何度も何度も花瓶の中を探したの。でもどうしても見付からなかった。だから、花瓶を割ったんだけど、それでも何も出てこないんだ。おかしいよね。どうして花瓶の中に入れたはずのものが、花瓶が割れたのに出てこないのか、あたしには分からなかった。今だって分からない。分からないんだよ。宝物を探したよ。一生懸命、探した。泣きながら探した。何度も何度も花瓶の欠片を引っ繰り返して、手を切った。今でも少し傷跡が残っているよ。血がいっぱい出た。それでも宝物は見付からなかった。藍色の花瓶に隠していた、あたしの宝物。そのうち、お母さんが帰ってきて、あたしの部屋にやってきて、叫び声を上げたの。そしたら、二階で寝てたお父さんが下りてきて。大きな足音だったよ。お父さん、あたしを見て、何してるんだって大声で怒鳴って、あたしの顔を殴ったの。

 097 : 花瓶を買わない : 05/04/10

 秋野は泣き出した。足元では黒い花瓶が割れていた。さっき僕達が雑貨屋で買った花瓶だ。海沿いの公園はとても穏やかで、空ではのんきそうに雲が浮かんでいた。ベンチの近くには誰もいなかった。秋野は泣きながら続けた。そのうちお父さんはお母さんを殴るようになって病院に連れていかれたし、お母さんはお母さんで再婚してあたしのことをますます見なくなっていったし、あたしはどうやって生きていけばいいのか分からなかったの。自分の生きている証が世界のどこにもなかった。あたしには宝物が必要だったんだよ。僕は泣いている秋野の背中を撫でた。花瓶の包装紙と箱は破り捨てられ、やはり僕達の足元に散らばっていた。風が吹いたら厄介だな、と少しだけ考えた。それでね、思ったんだ。理由もなしに行ってしまったのなら、理由もなしに帰ってくるかも知れないじゃないかって。花瓶をずっと近くに置いておけば、ある日、ふっと消えてしまったときと同じように、ふっと戻ってくるかも知れないじゃないかって。だからあたしは、新しい花瓶を用意して、勉強机の上に置いたの。家が変わっても一人暮らしを始めても、あたしはずっと花瓶を手元に置いていたの。花瓶がせめてもの手掛かりなんだよ。ずっと待ってるんだ。あたしは宝物を取り返したいんだよ。秋野はそこで力尽きて、両手で顔を覆った。僕は何も言わずに海と空とを眺めていた。海辺の鳥が鳴いていた。波の音が近付き、離れていった。僕の右手は秋野の背中にあった。秋野は少しずつ泣き止み、呼吸を整えていった。気が付けば雲は随分と遠くにまで行ってしまっていた。相変わらずベンチの近くには誰一人としていなかった。秋野が大きく息を吐き出すのを聞いてから、僕は海と空とに向かって言った。それで、宝物は戻ってきたの。戻ってこないよ、戻ってきたならもう部屋に花瓶を置いておく理由がないじゃない。まあ、そうだよね。僕は二秒待ってから続けた。ただ花瓶を置いておくだけじゃだめなんだと思う。僕は秋野の顔を見た。少し驚いた顔をして僕を見ていた。花瓶を秘密にしないと意味がない。花瓶を隠すんだよ。君が子供の頃にしていたみたいに。そうしないとだめなんだ。そうしない限り、失われたものは戻ってこないんだよ。秋野はゆっくりと口を開き、ゆっくりと言った。そうなの。そうだよ。僕はそう断言して、ベンチから立ち上がり、足元の黒い花瓶と包装紙と箱の残骸を拾い集めた。途中から秋野も手伝ってくれたので、思ったほど時間はかからなかった。

 098 : 花瓶に祈らない : 05/04/11

 白い花瓶をオレンジのカラーボックスの奥に置いた。手前に本を並べて、花瓶を隠した。念のために雑誌も積み重ねておいた。そして来る日も来る日も祈り続けた。宝物が戻ってきますように。生きている証が帰ってきますように。今日も花瓶にそう祈って、あたしはベッドに横になった。分かっている。本当はそんなものは必要ないんだ。あたしはもう大人になった。幻想を失い、憧憬を捨て、少しずつ身軽になって、あたしは大人になってしまった。もう宝物がなくても生きていける。生きている証なんかなくても困ることはない。それくらいのことはあたしにだって分かっていた。中学も高校も卒業できた。母親との確執は自然消滅して、父親は灰と煙になってしまった。大学だってなんとか受かったし、一緒に生きる相手だって見付けた。少しくらいは変なところもあるかも知れないけれど、少なくとも自分の人生を生きられないほどの愚かな人間にはならなかったつもりだ。それでもあたしは宝物に固執していた。部屋の中に花瓶を置くことを忘れなかった。何故だろう。あたしは天井を見上げて少しだけ考えた。自分があまりにも大きな欠落を抱えたまま生きているんじゃないか、と思ってしまうときがある。誰が見ても明らかな穴が開いているのに、自分だけがそれに気付いていなくて、みんなは目を伏せて知らない振りをしている。そんな不安に駆られてしまう。漠然とした喪失感がある。それが、宝物を失ったしまったことに由来するものなのかどうかは、あたしにはよく分からない。もしかしたらあたしは、自分の中にある何かを、あるいは自分の中にない何かを、宝物のせいにしてしまいたかったのかも知れない。あたしは溜息を吐いて、意識を閉ざした。何にせよ、あたしは花瓶を通過しなければならない。花瓶を通過しないことには、結局のところ、世界のどこにも行けないのだ。すぐに眠ることができた。暗い夢を見た。起きたときには枕元にメモがあった。寄ったけど寝ていたので帰ります。クッキーを作ったので食べて下さい。あたしはカラーボックスの上に手を伸ばし、そこには何もないことを思い出した。本を取り出して、カラーボックスの上に置く。奥には花瓶がある。一瞬だけ祈った。花瓶を手に取る。花瓶が少し重くなっていることに、すぐには気付かなかった。花瓶を落とした。白い花瓶が割れた。宝物が出てきた。あたしが小さかった頃、本当に本当に大切にしていた、木のスプーン、ハンドタオル、小さなギア、外国の硬貨、縫いぐるみの目、クッキーのレシピが出てきた。

 099 : 花瓶を割らない : 05/04/12

 秋野は透明の花瓶を持っていた。僕にはそれが見えた。空は向こう側が透けて見えそうなくらい澄み渡っていて、青の先にある色のことを少しだけ教えてくれていた。お父さんが犯人だったのね。うん、まあそういうことだよね。君の部屋に自由に出入りできたのは御両親だけだ。君とお母さんが犯人じゃないなら、犯人はお父さんしかいないよね。多分、花瓶がなくなったことに気付いたお父さんは、君の部屋にあるってことに勘付いたんだろう。僕はそこまで言って、缶コーヒーを飲んだ。とても温かかった。これはどこにあったの。秋野は木のスプーンを握り締めていた。子供のような手付きだった。ん、君の元の実家、彼の部屋を探したらすぐに見付かったよ。あ、そう。秋野は大きく溜息を吐いて、小さく首を振った。どうして、お父さん、あたしの宝物を盗んだのかな。証拠はないけど、仮説なら立てられるよ。僕は目を閉じて、ゆっくりと続けた。君のお父さんは、君を殴ったことからも分かるように、ちょっと乱暴な方だ。病院にも行くようになったわけだし、きっと当時から何らかの病気だったんだろうね。多分、お父さんは花瓶を割りたかったんじゃないかな。人間を壊してしまうわけにはいかないから、花瓶を割って憂さを晴らしたかったんだと思うんだ。暴力性を発散させて、自分を維持するためにね。花瓶はお母さんが買ったものだから、八つ当たりにも丁度良かったんだろう。お父さんは君の部屋で花瓶を探し当てた。ところがどうしたことか、そこには宝物があった。宝物を入れたまま割ることはできない。だってそんなことをしたら、宝物を拾おうとした君が花瓶の欠片で傷付いてしまうかも知れないからね。うん、屈折してるね、実に屈折している。そして宝物を取り出した彼は、君が大切にしていた品々を見て、心を安らげ、花瓶を割るのを止めることにしたんだ。だから花瓶は無事だった。ただ彼はミスを犯した。宝物を花瓶に戻しておくのを忘れていたんだ。つまりね、お父さんはうっかりしていて、宝物を戻すのを忘れただけなんだよ。あるいは君の宝物が彼の宝物になってしまったのかも知れない。どちらにせよ、君は宝物を失い、花瓶を割った。そして、自分が割らなかった花瓶を娘本人の手によって割られてしまったお父さんは、激昂した。そういうことなんじゃないかな。多分、お父さんは花瓶を割りたかった、ただそれだけなんだと思う。僕は目を開けて、また缶コーヒーを飲んだ。少しぬるくなっていた。そうね、お父さんは花瓶を割りたかった、それだけだよね。秋野は少しだけ笑って、透明の花瓶を僕に差し出した。空の向こう側は青の先にある色で、僕達が死ぬのを静かに待ち構えていた。僕達は一緒に透明の花瓶を放り投げた。花瓶は、どこまでもどこまでも飛んでいき、この青空を通過して、この世界を突破して、お父さんは、多分、笑顔で花瓶を割ってくれたと思う。

 100 : 花瓶について深く考えない : 05/04/13

 あなたも割りたくなりますよ。

 補遺 : 05/10/10

 当「花瓶を割らない百の方法」は 05/01/03 に開始し 05/04/13 に終了した。一日一つずつ考えていくという当初の予定通り、順風に帆をあげて倦まず弛まず書き続けてきたが、05/03/24 あたりから誤字脱字が散見されるようになり、果てには題名も本文も空白のまま発表するという不慮の失態を演じてしまい、その訂正作業に半年の労を費やした次第である。尚、この雑文を著述し始めてからというもの、諸方で花瓶を目にする度に甚く反応してしまい、花瓶に過敏になっていることを痛感した旨を書き添え、全文の結びとさせて頂く。

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