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いやね、三谷幸喜と星護と本間勇輔なんだから、つまらないわけないんですよ。
一文に要約すると、役所広司のツンデレ・オシレーションを嫌というほど楽しむ映画でした。ツンとデレの同時発動が素晴らしかったですね。ちょっと怒鳴り過ぎですよ。高橋昌也の演技はパーフェクトとしか言いようがない。稲垣吾郎は、まあいいや。
ラストの展開にはちょっと無理があるような気もしたのだけど、二時間に詰め込むにはこうするしかなかったのだろうね。もしも、三時間用意して、前半と後半を滑らかに接続し、二人の内面をきちんと表現していれば、傑作になっていたかも知れない。
ソバとスシの議論が良かったですね。あの場面においてソバよりもスシの方が適切であることは、作中の二人のみならず万人が認めるところでしょう。三谷幸喜はほんとこういうことをやらせたらうまいなあ。
森茉莉は森茉莉以外の何者でもありません。
彼女を一言で暴力的に説明すると、「裕福な家庭に生まれて苦労を知らずに育った料理以外は何もできないお嬢さんがニート生活の必然の結果として親の遺産を食い潰してしまったので中年になってから仕方なく小説を書いたらムヒョー売れたぜ。人生なんてチョロイチョロイ、渡る世間は甘かった」ということでよろしいか。よろしくねえよ馬鹿。
正直に言って、森茉莉が自分の友人で自分がシマリスくんだったらここでビンタしてるだろうなあ、というエピソードが目白押しでありました。でも、そういう身勝手な性格になってしまったことも、料理以外は何もできないお嬢さんになってしまったことも、本人に非があるというよりは、両親の教育や周囲の環境に問題があったように思えるんですよね。あれだ、「六の宮の姫君」だ。子供を手放しに甘やかして育てることは、虐待ですよ。しかしそれでも、小説が書けたんだから、良かったんでしょうね、きっと。
本書にはその森茉莉が愛した数々の料理が出てきます。何度も何度も同じ料理や同じエピソードが出てくるので、よほど印象的だったのであろう、と思わずにはいられません。自分と森茉莉が分かち合えるものは、実のところそんなに多くないのかも知れませんが、次の記述には膝を打ちました。分かる分かる。
テレビの料理番組を見ていていつも感じるのは、塩小匙半杯、酒小匙半杯、なぞと、塩や砂糖、酒、なぞの分量を言うことである。料理に入れるものというものはそんなに規則的に計って入れるものではない。長いこと遣っていて自然に会得するものだ。そうすると目分量で遣れるようになる。第一味というものはそれぞれの季節にもよるし、その日の気候にもよるし、食べる人のその日その日の気分もある。(略)
ごめん、膝を打ったってのは嘘だわ。打たなかった。打たねえよ。打つか馬鹿。
さて、次は小説を読もうか。
ここは当たり。とても美味しい冷やしたぬきうどんを頂くことができました。これはうまいわ。ダシが効いているね。
というわけで、また来ます。次はてんぷらうどんだな。
京王線で新宿に出て、中央線で東京へ。特急さざなみが夕方まで出ないことに気付いて愕然とする。そこで機転を利かせて特急わかしおに乗り、安房鴨川で乗り換え、なんとか無事に千倉に到着いたしました。良かった良かった。急がば回れ、であることよ。
ペンションに荷物を置き、一休みしてから、夕食を取りに出掛ける。浜の郷というお目当てのお店があったのだけど、残念ながら本日は閉店なり。渋々別のお店で食事を取ったものの、残念ながらハズレであった。まあたまにはこういうこともあるさ。
ドラッグストアで買い物をして、ペンションの露天風呂に入り、テレビを眺めながらビールを飲んでお菓子を食べる。砂の城が波に押し流されるように眠りました。
帰ってきました。猫達は気持ち良さそうに眠っている。悪いことをしてしまっただろうか。
目覚めたときに寝惚けていて、布団の上にクマを探してしまった。病気だ。
本格的に雨が降っている。またしても露天風呂に入り、部屋で一休みして、バイキングの朝食を取る。何度来ても全く同じメニューなのだけど、潔くていいと思います。
ペンションの方に車で駅まで送って頂き、そこから歩いて SCHIELE へ。そそっかしいもので、開店時間の三十分前に着いてしまったよ。ほんと済みません。しばらく絵を眺める。開店時間を待って、コーヒーを飲み、クッキーを頂きました。とても美味しかった。
昼食を取りに Cafe Flottant まで行こうと思い、電話をかけてみたところ、今日は貸切だという。残念。こうなってしまっては、因縁の浜の郷に行くしかないじゃないか。
というわけで、歩いて浜の郷へ。今日は無事に営業していました。満を持して、天丼を頂きます。実は昨日の夕食も天丼だったのだけど、格が違いますね。きとうしとあくましんかんくらい違う。とても美味しかった。大満足です。
南に向かって浜辺をひたすら歩く。ハリセンボンらしき魚が打ち上げられていたのでびっくりしました。いるんだねえ。打ち砕かれた貝殻を踏み、川を横断する犬を眺める。
やがて千倉駅に戻り、電車に乗って、館山で特急さざなみに乗り換え、東京から中央線で新宿へ。下北沢に寄って、ぶらぶらしてから帰りました。らくだ珈琲店、いいね。+7
まだ読んでたんだ。まだ読んでたんだよ。
あらすじ。メザニーンはイマジネータに「くだらないわね。所詮はクズの寄せ集めだわ」と罵倒されました。メロー・イエローはフォルテッシモ先生が大好きでした。終わり。
高校生の頃から読み続けてきた恥知らずとしては、スプーキー E の耳が二つの意味で回収されたので大喜びです。どうでもいいけど、アイツが出てくるとストゼロのバーディーを思い出すんですよね。似てませんか。会ったことあんのかよ。
小守時枝に死亡フラグが立ったときは笑ってしまいました。うわ! フラグ! 立てちゃったよ! ていう。うるさい。
小守時枝、十八歳。
好きなのは写真を撮ることと、タコス風味のフライドチキンと、友だちとおしゃべりすること。まだ男の子ときちんと付き合ったことはない。
彼女はこのとき、これから自分を待つ運命のことを知らない。
やるなあ。やってくれるよ。
それにしても、いつになったらこのひとは広げすぎた風呂敷を閉じてくれるのだろう。このまま延々と統和機構と MPLS とブギーポップのマンネリズムバトルが十五巻くらい続いたら泣いてやる。
作中作の一言ではとても済まされません。
あらすじ。ハマー・ナナの家で共同生活を営む女性達は全員分かりやすく気が狂っていたので、演劇をするだけではなく世界を書き換えてしまうことにしたのでした。過去現在未来が錯綜し、やがて宿命的な悲劇が訪れ、ラストシーンは憑き物落としでした。終わり。
イタイイタイ描写は割と苦手なのでそこはノーサンキューだったのですが、それ以外はとてもとても面白かったので大満足です。といっても、イタイイタイ描写が全くなかったら、あの緊張感全開の空気は作れなかっただろうから、きっとそれにも必然性はあったのだろう。最初のあたりは「変な演技だなあ」と思いながら見ていたのですが、途中でその意図するところに気付いて驚きました。脱帽です。
もしも知り合いが麻薬を始めそうになったら、何も言わずにこの映画を見せたら良いと思います。キャッチコピーは「覚醒剤やめますか、人間やめますか、それとも、世界を書き換えますか」で。無理だ無理だ、俺には世界は書き換えられねえ。そう言って諦めますよ。めでたしめでたし。て、そんなうまくいくわけねえだろ! この御都合主義野郎! ハーレムアニメでも見てろ! うるさい。
そうそう、三輪明日美がかわいかった。高ポイント。片桐はいりは相変わらずいい演技をするね。
お風呂上がりに自転車を走らせ、下高井戸でグルジア映画を見てきました。スパシーボって言ってたから、多分ロシア語だったんだろうなあ。
あらすじ。
「君達、ここはワイン醸造工場だ。
この工場は今週中に樽いっぱいのワインを出荷しなければならない。
空けられる樽は 49 番くらいのものだろう。
ところがこの 49 番の樽のワインはまだ十分に醸造されていない。
だから 49 番の樽のワインを飲んだ者は誰一人として「うまい!」と言わない。
ただ、嬉しそうに口に含んでから、急に眉をひそめて首を振るだけだ。
それでも出荷するしかない。
生産量を落とすわけにはいかないのだ。
私達は 49 番の樽のクソまずいワインを壜に詰めて出荷しなければならないのだ。
うちの従業員連中がレストランに行き、そこで三月二十五日にこの工場から出荷されたワインを見付けてしまったら、すぐにそのレストランを出ていかなければならないのだ。
分かるね?
なに?
なんだと?
じゃあどうすればいい。
え?
ゼラチナスマター?」
終わり。
というわけで、ワイン醸造工場の若手技師が、己の信念を貫いて上司の指示に逆らい、必殺ゼラチナスマター蹴りを喰らわせるというお話でした。ラストは無理矢理ハッピーエンドだったのでどうでもいいです。冒頭の葡萄収穫のシーンや、ガラス管をワインが流れていく様子や、ニコの生き生きとした動作が良かったですね。歌や音楽を多くて高ポイントでした。必殺ゼラチナスマター蹴りは出てきませんでした。
ワインが飲みたくなってきたので飲みます。今度グルジアのワインでも探してみよう。
名作「円紫さんとわたし」がつまらないわけありません。前作「六の宮の姫君」を読んでから何年が経ったのだろう。
あらすじ。俳句で、リドルストーリーで、忠臣蔵でした。終わり。
というわけで、「山眠る」と「走り来るもの」と「朝霧」のトリプルヒットだったわけですが、白眉は文句なしに「山眠る」でしょう。
──だが、《山眠る》の即興句に乱れはありません。
そうなんだよ! 流石は円紫さん、言うことが違うやね。超論理だよ。ただ、敢えて文句をつけるなら、ラストシーンはなくても良かったと思う。「わたし」の長科白はおろか、本郷先生の登場さえ必要なかっただろう。
しかし、相変わらず「わたし」のそんな奴ァいねえ感が物凄かったのですが、それを言い出したらホームズとワトソンのカップリングだってそんな奴ァいねえって話ですよ。カップリング? カップリング。
あとどうでもいいけど、円紫さんのヴィジュアルがどうしてもタブチくんになってしまうのは、いしいひさいちのせい先生です。
原作未読。タイトルが秀逸ですよね。西の魔女が死んだ、いい音を作ったものです。
あらすじ。中学生の女の子はしばらく学校を休んで、祖母の家で魔女修行をすることにしました。終わり。
山荘生活と魔女に萌えるための映画だったということでよろしいか。サンドウィッチとクッキーが食べたくなったよ。ストーリーは、よくある非日常体験成長物語なのでどうでもいいです。「ネバーエンディング・ストーリー」を思い出してしまった。「十五才 学校IV」も思い出してしまった。そんな映画見てたんだ。見てたんだよ。終始一貫して、色褪せてぼやけたような色調だったのは、ファンタジーっぽさを演出するためだったのでしょうね。それはそれでいい。
そう、読んでいないくせにこういうことを書くのは嫌なのだけど、多分、原作を映画に直訳してしまったんだろうなあ。小説の文脈で映画を作っているように見えたんですよ。例えば、ほら、小説の科白って読みやすいけど、あれは一種のデフォルメであって、実際にはあんな風に喋らないでしょう。明瞭すぎる言い回しや準備されたような独白は、小説だったらお約束事として了解できるのだけど、映画になるとわざとらしく見えてしまう。そういったことがあって、最後まで自分は引っ掛かっていたのだと思います。いや、明瞭すぎる言い回しや準備されたような独白があるからこそ、光り輝く映画もありますが、それはそれとして。
高橋克実と木村祐一の二人はかなりがんばっていました。そうそう、チョイ役だったけど、大森南朋が見られて良かったよ。懐かしいなあ、ブス恋。
自慢じゃありませんが、いしいひさいちの漫画は幼稚園児の頃から読んでいました。
あらすじ。山田家の五人と一匹は、今日も相変わらず元気でした。矢野顕子はいい歌をうたいました。終わり。
やや、面白いじゃないですか。やっぱり高畑勲はいい仕事をするなあ。力の抜けたような画がいいね。漫画が読みたくなってきたよ。
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