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- 15/12/31 -

 落ちてくる落ちてくる

「今年も年末だね。じゃあひとつ、とっておきの嫌な話でもしようか。」

「 A くんは大学に向かう途中の坂で、なにかが空に浮かんでいるのを見つける。見間違いかと思って目をこらしているうちに、それはふっと消える。寝不足のせいかな、でも、と思う。大学に向かう足を速める。風が吹き、枯れ葉が揺れ、つま先が冷える。さっき見たもののことを思い出す。遠くてよく見えなかったけど、あれは、そう、肉に見えた。」

「 A くんの人となりについて、少しだけ話しておこう。彼は東京にある大学の三年生、理系の学部生で、大学院への進学を検討している。実家は北陸で、お父さんは信用金庫の職員、お母さんは支援級の教師をしている。三つ下の妹がいる。よく古本を読む。サークル活動では天文部に所属しているが、三年生ともなると主な活動は学園祭くらいに限られる。スポーツは特にやっていないものの、大学への片道三キロを毎日徒歩で往復するのは苦ではない。夜は炊いた米を食べる。寝る前にはテレビを見ながらツイッターをする。」

「次の日、A くんはまた大学に向かう坂を歩いていた。上を見ると、またあれが見えた。でも、今度は肉には見えなかった。明らかにそれは、服を着ていた。オペラグラスを持ってくるべきだったかな、と思っているうちにまた消えた。それはやはり遠くにあって、自信が持てなかったけど、犬や猫くらいの大きさだったように思う。」

「さらに次の日。A くんはまた見上げる。その日は雨が降っていた。オペラグラスを持つ手が震えていた。A くんは確信した。あれは、女の子だ。」

「土曜日も日曜日も、A くんは坂を歩き続けた。そして、それを見た。図書館や池の近くで本を読みながら、二つのことを確信していた。ひとつ、子どもは日に日に大きくなり続けている。もうひとつ、あの子は、少しずつ、落ちてきている。頭を下にして。」

「一日ごとに子どもの服装は変わっていった。スモックを着なくなり、黄色い帽子をかぶらなくなった。A くんはカレンダーをよく確認するようになった。最初に見えた日からもうすぐ二週間が経とうとする頃、彼女は学校の制服を着るようになった。」

「まだまだ手が届くような距離じゃない。ただ、彼女は毎日少しずつ落ちてきていたので、オペラグラスがなくても子細がつぶさに確認できた。そして、その顔に見覚えがあるような気がしてきた。制服を着始めた三日後、制服が別の制服になった。高校に進学したのだろう。」

「やっぱりあれは、島本さんだ、と A くんは思った。高校で同級生だった島本あかりさん、そのひとだった。A くんは食い入るようにその顔を見た。空から落ちてくる島本さんは、A くんの記憶にあるとおり、楽しそうに笑みを浮かべていた。」

「彼女は制服を着なくなった。その日は薄い黄緑色のワンピースを着ていた。確か島本さんは、地元の大学に進学したはずだ。胸騒ぎがした。もうだいぶ眠れなくなっていた。携帯電話のアドレス帳をじっと見えていることが多くなった。メアドは知らなかったし、誰かに聞くのも気が引けた。次の日の夜、意を決して A くんは島本さんに電話をかけた。」

「だって、最初に見えたあの日から、これでもう三週間だから、」

「明日には、あの島本さんは、今に追いついてしまう。」

「『うわー、どうしたのー!? ひさしぶりじゃーん!』という、底抜けた明るい声に A くんはあっけを取られた。島本さんに何かあったのか、と思ったのは、どうやら杞憂だったらしい。A くんはあわてて言い訳を取り繕う。今度同窓会でもやりたいなと思って。へー、いいねいいね。それで島本さんに幹事になってもらおうかと。えー、なんでよー。とっかかりはそれで十分だった。A くんは同窓会の話題から離れ、島本さんの近況について尋ねた。大学生活は充実している。家庭教師のバイトをしていて、生徒の子はめちゃくちゃかわいい。運転免許を取ったら両親がクルマのお古をくれた。彼氏に狙っているひとがいる。」

「三十分ほど無駄話をして、A くんは電話を切った。なんだ、何も心配することはなかったんだ、と思う。テレビをつけるとお笑いをやっている。うちのアパート、ちょっとおかしいんですよ。なに、どうしたん? テレビも何もつけてないのに、急に女の声がしてきてですね。うわなにそれ、ちょっとシャレにならんて。いやほんとですよ、お風呂に入ろうとするときとかね、聞こえてくるんですよ。えええ、なに、それなんて言うてんの。『残りおよそ五分でお風呂に入れます!』。ええとこに住んでんな! A くんは声をあげて笑った。その日は久し振りにゆっくり眠ることができた。」

「しかし、A くんの期待は無惨にも裏切られた。次の日も、島本さんは落ち続けていた。A くんは立ち尽くし、島本さんが消えたあともしばらく動けなかった。A くんのすぐ横を、他のひとたちが迷惑そうに通り過ぎていった。青空をカラスが横切った。これからどうなるのだろう。どうすればいいのだろう。」

「ジャンプすれば手が届くかも、と思った。島本さんは二十四歳になっていた。笑顔はだいぶ大人の落ち着きを伴うようになり、服装もきちんとしたビジネスカジュアルになっていた。何の仕事をしているのだろう。まだ大学生の A くんには検討もつかない。将来の夢を聞いておけば良かった、と思った。」

「いつまでこれは続くのだろう。そして、島本さんはどこまで落ちるのだろう。A くんはまた眠れなくなった。夜中に嫌なことばかり思い出すようになった。テレビをつける気も起きなくなり、ツイッターもまったく見なくなった。いつも喉が乾いていた。手を拭くことが増えた。何かとてつもなく悪いことが起きそうな気がした。」

「 A くんの不安は的中した。」

「異変があったのは、島本さんが二十七歳になったときのことだった。」

「今までずっと、少なくとも薄い穏やかな笑みを絶やさずにいた島本さんから、一切の表情が失われていた。顔の筋肉は凍り付き、髪の毛も乱れ、皮膚の色さえ違って見えた。いったい何があったんだ。すぐに彼女は消えてしまう。次の日はもっとひどかった。彼女は汚れが染みついた服を着ていて、目立つところに幾つものアザやケガがあり、この世のすべてが憎くてたまらないという顔をしていた。とても同じ島本さんには見えなかった。その日はもう大学に行くことができなかった。」

「次の日も、A くんは大学に行くことができなかった。」

「また電話した島本さんは、相変わらず底抜けに明るかった。A くんは相槌を打つのが精一杯だった。何を話せばいいのか、まったく分からなかった。島本さんはあれから彼氏ができたと話した。急展開でびっくりしたでしょ、と笑った。そのうち東京に遊びに行こうと話している。彼氏は東京タワーが好きなんだそうだ。」

「どうしても行かなければならない授業があったので、A くんは唇を噛みながら坂道を歩いた。わずかな希望にすがりながら顔を上げた。もう見上げる必要もなかった。三十二歳になったはずの島本さんは、もう四十代なかば、あるいは五十代にしか見えなかった。人間って、こうなるんだ、と思った。A くんはどうしてもその目をのぞき込むことができなかった。」

「一週間ほど、A くんは大学を休んだ。自分が何を食べて何を飲んだのか、ほとんど思い出せなくなっていた。心配した友達から電話が来た。大丈夫、ちょっと体調が悪いだけだから。心配ないよ。うん、分かった、じゃあまた来週。」

「 A くんは下を向きながら坂を登っていた。」

「そして、目の前に血だまりがあることに気付いた。その先にある黒いものを見ることができなかった。血だまりはすぐに消えた。足を止めないように気をつけた。一度止めてしまったら、もう二度と歩き出せる気がしなかった。」

「ああ、そうか、と思った。やっと分かった。どうしてこんな簡単なことにずっと気付かずにいたのだろう。」

「島本さんは、飛び降り自殺をして、一瞬のうちに、それまでの人生のすべてを思い出すんだ。」

「 A くんはもう二度と島本さんに電話をかけなかった。電話がかかってきても気付かないふりをしてやり過ごした。共通の友人からも連絡が来たが、無言で電話を切って、ついでに電源も切った。最後には携帯電話の電話番号を片っ端から着信拒否設定した。そうやって、ようやく A くんはかつての平穏を取り戻すことができた。」

「しかし、その不誠実な態度が良くなかったのだろう。」

「数年後、A くんは、職場の方から唐突にこんな話をされる。」

「『あの、A さん、急にこんな話をして、なんか、頭がおかしくなったのかとか思われそうですけど、最近、』」

「『空から A さんが落ちてきてるんです。』」

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