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- 05/12/01 -

 チーズと数論とピース

 東京に住んでいるからか、街中や公園を歩いていると、写真を撮ってくれと頼まれることが時々ある。多分、カメラを盗んで走り出すような人間には見えないのだろう。ありがたいことだ。
 それで、普通のひとは写真を撮るとき、どのように発声するだろうか。決まっている。
「ハイ、チーズ」
 である。あれは恥ずかしい。罰ゲームものだと思う。だって、チーズですよ、チーズ。モッツァレラとかカマンベールとかゴルゴンゾーラとかいう、そういうあれですよ。もう、なんというか、横文字、舶来、文明開化って感じじゃないですか。田舎者丸出しですよ。ああもう。恥ずかしいったらありゃしない。
 まああれはそもそも英語の "Say cheese!" であって、 cheese と発音すると自然と口が横に広がって笑顔に見えるからだ。しかし日本の場合 cheese と発音するのは大抵、撮られる側ではなく撮る側である。よく分からない。本末転倒ではないか。スーパーのタイムサービスのためにタクシーに乗る白鳥麗子くらい本末転倒だ。しかも間に合わないんだよなこれが。
 ではそのような事情を考慮したとき、どのような言い方ならば理に適っているといえるだろうか。決まっている。
「 1 + 1 は?」
「 2 」
 である。しかし、これもまた罰ゲーム級の恥ずかしさを伴うことは言うまでもない。だって 1 + 1 = 2 ですよ。何ですか急に。証明でもしたいんですか。こんなところまで来て数論の話ですか。非常識な。あなたはディリクレですか、ペアノですか、谷山豊ですか。ああもう。恥ずかしいったらありゃしない。
 写真を撮ってくれと頼まれる度に考えてしまう。どうして未だに「ハイ、チーズ」は死語になっていないのだろうか、どうしてひとは卒業文集に消しても消えない過去を残してしまうのだろうか、どうすれば 1 + 1 = 2 を証明することができるのだろうか、こういうしている今もアフリカの子供たちは餓えて苦しんでいるのだろうか、アフリカの子供たちはピースサインを知っているのだろうか、と。あの、左端の方、もうちょっと右に寄って下さい。違う違う、こっちから見て右です。ていうか、どうやったらそこを間違えるんですか。
 仕方なく、僕は写真を撮るとき、次のように発声することに決めている。
「撮ります。 3、2、1 」
 無難だ。あとピースサインも恥ずかしいよね。恥ずかしいんだよ。

- 05/12/08 -

 銀座の Book 1st のトイレ

 えっと、ついこないだのことなんですけどね。銀座の Book 1st に行ってきたんですよ。ほら、四丁目交差点の近くで、UNIQLO のビルの向かいにある、あそこですよ。そこに行って、その、ちょっとあれな話なんですけど、トイレに入ったんですよ。まあ用を足したかったんでね。
 トイレに入ると、まずは手洗いがありますよね。温風器があって、鏡があって、水道があって、まあ普通のトイレの手洗いですよ。どうでもいいですけど、昔からあの温風器の存在意義がよく分からないんですよね。そんなことはないですか。まあいいや。
 その手洗いの台の隅に、こう、本が一冊置いてあったんですよ。ブックカバーは三省堂書店でした。漫画だってことはすぐに分かりましたよ。ページの端から黒いものが見えてましたからね。中を覗いてみると、浦沢直樹の「 20 世紀少年」でした。ヨシツネがいましたよ。
 話はこれで終わりです。どう思いますか。おかしいじゃないですか。誰がどんな理由で Book 1st のトイレに三省堂書店のブックカバーをつけた「 20 世紀少年」を放置しなきゃいけないんですか。不思議ですよね。僕も不思議だったんです。
 でも、それが不思議じゃなくなったんです。聞いて下さい。誰もが驚く名推理ですよ。
 あの、その本を置いていったひとが来たとき、もしかして、トイレに紙がなかったんじゃないですかね。こんなオチでほんと済みません。

- 05/12/09 -

 突っ込み三昧

 先日、高校の友人達と会う機会がありましてね。みんなで酒を飲んできたんですよ。それで、その帰りの電車、終電だったんですけどね、終電が十時半とかなんですよ、田舎ですからね。まあいいや。そこで友人がこんなことを言ってきたんです。
「グランドキャニオンに行って『谷かよ!』って突っ込みたい」
「鳥取の砂丘に行って『砂かよ!』って突っ込みたい」
 いやー、分かる分かる。あまりに分かってしまう野望だわ。やってみたい。金閣寺に行って「寺かよ!」って突っ込んだり、槍ヶ岳に行って「山かよ!」って突っ込んだり、富士樹海に行って「森かよ!」って突っ込んだり、九十九里浜に行って「海かよ!」って突っ込んだり、ハワイに行って「島かよ!」って突っ込んだり、死海に行って「湖かよ!」って突っ込んだり、ピラミッドに行って「石かよ!」って突っ込んだり、北海油田に行って「油かよ!」って突っ込んだりしたい。分かる分かる。
 あ、そうだ、「ここまで来て」を付加してもいいかも知れない。「ここまで来て、石かよ!」「ここまで来て、油かよ!」どちらもなかなか味わいのあるいい科白ではないかと思う。あの、石や油ならうちにもあるよ、そんな珍しいもんじゃないって、欲しかったらあげようか、お礼とかは別にいいから、その気持ちだけで十分、みたいなね。
 多段展開できる場合もあるだろう。ツタンカーメンを見て「金かよ! って、あれ? 金だよ!」とか、ゲルニカを見て「ピカソかよ! って、あれ? ピカソだよ!」というのはどうか。どうかって言われてもね。何が多段展開だ。
 多分、その気になれば、北海道に行って「北海道かよ!」って突っ込んだり、オランダに行って「オランダかよ!」って突っ込んだりもできる。きっと六本木に行って「ここまで来て、六本木かよ!」とも突っ込める。あ、いや、やっぱり突っ込めない。なんか、間違えたっぽい。済みません。
 言うまでもなく、これらの突っ込みはすべてツッコミに見せ掛けたボケであるので、きちんと次のような正統派のツッコミを返しておくことが望ましい。「谷かよ!」「いや谷だよ!」や「砂かよ!」「いや砂だよ!」など。こうすれば互いの絆もよりいっそう深まるというものである。そう簡単にできる応酬ではないので、事前に入念な打ち合わせや日々の練習を欠かさないように。普段から「台所かよ!」「いや台所だよ!」や「テレビかよ!」「いやテレビだよ!」などと言い合っていると頭が悪そうで実にいいですね。
 やはり個人的には
「エビアンに行って『水かよ!』って突っ込みたい」
 を強くリコメンドしたい。何がリコメンドだ。

- 05/12/13 -

[ GreenEyedCats ] マフラーを買った

 生まれて初めてマフラーを買った。

 僕はずっとマフラーが大の苦手で、ここ十年くらい身につけたことがなかった。いや、少しくらいならつけていたのかも知れないけれど、自分から進んでつけることは多分一度もなかったと思う。とにかく子供の頃から、マフラーが嫌で嫌で仕方なかったのだ。マフラーをつけなさい、という家族の言葉には悪意すら感じた。自意識が強すぎたのだろう。
 昔からマフラーをつけると違和感がした。背筋がぞぞっと震えて、余計に寒気がした。蛇のような生き物が首に巻きついているような感覚があった。いや、流石にそれは大袈裟だけど、マフラーをつけることによって自分の一部が侵されるような感覚は、物心つく前から確かにあった。息苦しいとか締め付けられるとか、そういう感覚とも少し違うが、正直よく分からない。うまく説明できそうにない。あれは多分、誰もが子供の頃に持っている、名無しの怪物だったのだろう。なんだかカッコいいからそういうことにしておく。
 マフラーをつけなかったので下校中に凍死しました、ということは滅多にないため、中学校でも高校でも大学でも、僕はずっとマフラーを避けてきた。まあ誰にだって少しくらい苦手なものはあるだろう。ジェリービーンズとか、グレーハウンドとか、日本人形とか。そういうことだ。

 上野駅の改札の中にユニクロがある。茶色と緑色の間のような色合いのマフラーを衝動買いした。1500円だった。
 自分の首に巻きついていたはずの蛇はいつの間にか、ただの古臭いロープになっていたのでゴミ箱に投げ捨てた。幽霊の正体見たり枯れ尾花。名無しの怪物も年には勝てなかったのであろう。十数年振りにつけるマフラーはとても暖かかった。なんとなく、大人になるということは、マフラーをつけられるようになることかも知れないな、と思った。そして、つい先日、大人になるということは、猫を飼えるようになることかも知れないな、と思ったことを思い出した。
 部屋に戻ってマフラーを外してベッドの上に置いた。あとで見ると当たり前のように猫がその上で眠っていた。悔しくなったので猫を首に巻きつけたら引っ掻かれて逃げられた。

- 05/12/21 -

 怒りを的確に表現する方法

「あのね、いい加減にしないと殴るよ。食べた覚えのないヨーグルトが口から出てくるくらい殴るよ」

- 05/12/22 -

[ GreenEyedCats ] 猫の寿命とそのあと

 ふと、猫は何年くらい生きられるのだろう、と思った。
 僕の知っている猫で十九年も生きていてまだ元気な奴がいる。また、知り合いのおばさんが飼っていた猫は二十一年も生きたそうだ。ギネスブックに載っている猫の長寿記録は三十四年二ヶ月四時間だという。
 でもそれらは特殊な例だろう。普通の猫は十年くらいで死んでしまうはずだ。いつか冷たくなって、土に埋められる。そして違う存在となる。犬になるかも知れないし、蜂になるかも知れないし、雲になるかも知れない。運が良ければ草原の大きなポプラの木になって、ひなたぼっこをしている猫達を見下ろせるかも知れない。夜になったら渡り鳥が枝にとまって、遠い遠い世界の話をしてくれることだろう。往々にしてそういう話の九割は誇張なのだけど、まあ誇張は誇張で悪くないものだ。たとえ作り話だとしても、南の島で白いイルカと殴り合ったときの話なら、下手な漫談より面白いに違いない。
 とにかく、猫はいつか死ぬ。それも、大抵の場合は、人間よりも先に死ぬ。

 いつか年寄りになって、日の当たる縁側でお茶を飲みながら、座布団で寝ている猫の背中を撫でたい、といった分かりやすい夢がある。いつからかその夢に出てくる猫は、クマかヴァイスのどちらかになっていた。考えてみればもう二ヶ月も一緒の部屋で暮らしているのだ。自然と思い浮かばない方がどうかしている。
 しかしそれは決して叶わぬ夢だ。二十年経っても僕はまだ中年で、年寄りとは言いがたい。僕が年寄りになった頃には、猫達はもう猫達ではないだろう。多分、もう若木を通り越して、立派な木になっている頃だと思う。真っ黒な二本の木が隣り合って立っていたら、それだ。一本は幹がやや太く、もう一本に白い部分があったら、もう間違いない。その近くには雉色の木も見付かるはずだ。
 僕も年を取って、いつか死ぬ。ただその前に、そういうポプラの木を眺めることができたら、それはとてもいいものだろう。なに、探し出すのはそんなに難しいことじゃない。なんてったって、真っ黒なポプラの木だ。そうそうあるもんじゃない。きっとすぐに見付かる。僕も渡り鳥が皇帝ペンギンと格闘したときの話を聞かせてもらうことにしよう。

- 05/12/26 -

[ ShortEssay ] 歯ブラシさんの日常

 洗顔フォームを歯磨き粉と間違えるという状況は、新井理恵を持ち出すまでもなく随所で見かける有名なネタであり、かく言う僕も間違えたことがある。キャップを外すところで気が付いたから助かったものの、もしも歯ブラシに洗顔フォームをつけていたら、間違いなく撲殺されていたことであろう。いや、これは冗談ではない。歯ブラシは恐ろしい。歯ブラシは毎日毎日、来る日も来る日も赤の他人の小汚い口の中を洗浄しなければならないのだ。焼肉を食べた日があれば、二日酔いの日だってあることだろう。それでストレスの溜まらない方がどうかしている。そんな、今にもぶちきれる寸前の歯ブラシに、洗顔フォームでもつけてみなさい。確実に撲殺される。間違いない。でもそんな話はどうでもいい。僕には疑問がある。何故、間違えるのは必ず「歯磨きをしようとして洗顔フォームを手に取ってしまう」であって「顔を洗おうとして歯磨き粉を手に取ってしまう」ではないのだろうか。こう考えてみると、途端にさっきまでの推測が疑わしくなってくる。実は、歯ブラシさんは洗顔フォームを歓迎しているのかも知れない。あれだ、「いっつもいっつも歯磨き粉でつまんねえなー、たまに刺激も欲しいよなー。たとえばさー、そこの、洗顔フォームなんてのも来ないかねー。なんてったって、洗顔フォームは、そう、泡立つからね」みたいなことを考えているのだ。洗顔フォームが来れば泡立つ上に、持ち主に一矢報いることもできて、一石二鳥ではないか。そう、我々は知らず知らずのうちに、歯ブラシさんの思念波を受信していたのである。洗面所。そこでは毎日毎日、来る日も来る日も我々と歯ブラシさんとの見えざる死闘が繰り広げられている。

- 05/12/27 -

[ GreenEyedCats ] 猫とクリスマス

 クリスマスの少し前から、猫達に何かをプレゼントしようと考えていた。
 こんな機会は滅多にない。少なくとも僕はこれまでの人生で、猫に何かをクリスマスプレゼントしたことはなかったように思う。クリスマスプレゼントというものは、大抵の場合、人間から人間に与えられる。そこに猫の入り込む余地はあまりない。まあ猫というのは概してそういうものだ。節分にも七夕にも十五夜にも、猫はあまり関係しない。ハロウィンには少し出番があるようだけど、まあそんなことはどうでもよろしい。
 プレゼントをあげること自体はすぐに決めたのだけど、猫達が何を欲しがっているのかなんて、そりゃあ猫達が何を欲しがっているのかくらい分からない。何か欲しいものはないかと尋ねてみても、何も知らない振りをして「にゃあ」と鳴くだけだ。あるいは「あーうー」や「ほーほけきょ」と鳴くだけだ。頼むから日本語を使って欲しい。君達はニューヨークでも東北弁で押し切る田舎のおばちゃん達か。
 最初に考えたのは猫用のソファ、あるいは猫用のベッドであった。しかし考えてみれば、猫達は僕のベッドの上で寝るのが習慣となっている。慣れた広いベッドと新しい狭いベッド、果たしてどちらを選ぶだろう。よく分からなくなってきた。思うに、当たり前のことだけど、ペット用品店に置いてある商品というものは、ペットが喜ぶものというよりは、ペットを飼っている人間が喜ぶものなのだろう。ケージにしてもキャリーバッグにしても、猫達が欲しがっているようなものとは思えない。どこに自分の爪切りを欲しがる猫がいるだろう。
 なんだか自分自身が子供に百科事典を買い与える親のように思えてきた。これなら近所の魚屋でアジの切り身でも買ってきた方がずっとましじゃないか。

 代々木上原の駅の中にペットショップがある。ショーウィンドウでは小猫と小犬が遊んでいて、こじゃれた横文字の缶詰が並んでいる。そういうお店だ。十二月二十六日の夜、そこで木製の外国のおもちゃを買った。球形をしていて、転がすと音が鳴る。猫にはちょうど良さそうだ。何よりも見た目がいい。
 地下鉄で少し眠り、寒い夜道を歩いた。部屋に戻るとすぐに猫達がやってきた。僕はクマとヴァイスに一日遅れのクリスマスプレゼントを差し出した。猫達がそれに興味を示したのは十秒くらいで、あとはそれを下敷きにして毛布の上で寝てしまった。頭を撫でていたらヴァイスが指を舐めてきて、そして軽く甘噛みをしてきた。あの、それはちょっと痛いから止めてくれませんか。猫達からはいつもいい匂いがする。メリークリスマス。

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