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- 05/11/07 -

[ GreenEyedCats ] キジがいなくなった

 キジがいなくなった。
 理由はよく分からない。首輪を付け替えたのが悪かったのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。一人旅に出たくなったのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。元の飼い主が何かしたのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。何を考えたって同じだ。そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。
 とにかく、僕には分からない理由によって、キジはいなくなってしまった。

 残された二匹の猫達は今も僕のところにいる。一緒に寝て、一緒に起きている。牛乳を飲み、キャットフードを食べている。毛布や椅子の上で気持ち良さそうに眠っている。部屋に帰ってくると大きな声で鳴く。床に座っていると膝の上に登ってくる。
 猫達はとても大人しくなった。暴れることもないではないけれど、静かに歩き回ったりのんびり休んだりしていることが多くなった。外に出たときは元気良く駆け回っているので、部屋の中は運動に適さない空間だと理解したのかも知れない。あるいは単に寒くなったからかも知れない。
 ヴァイスは時々やたらと甘えてくるようになった。妙に足にすりついてきて、少し歩きにくいこともある。椅子に座っていても膝の上に飛び乗ってくるくらいだ。一方クマはベッドの上で寝てばかりいる。どうやら布団の上に毛布を敷いておくと喜ぶようだ。寝る子は育つとはよく言ったもので、随分と大きく育ってしまった。抱き上げても猫達はもうあまり暴れない。十五分くらいなら抱いたまま近所を散歩できるようになった。ヴァイスは哀れっぽい丸い目で僕のことを見る。クマは仙人のような細い目で僕のことを見る。
 キジがいなくなったことは、二匹の猫達に何の影響も与えていないようだった。
 ではやはり、キジがいなくなったことによって影響を受けるべきなのは、僕自身なのだろうか。

 ある朝、電子ピアノが急に鳴って僕は飛び起きた。驚いて電子ピアノを見ると、黒猫が鍵盤の上を歩いていた。ああ、やるじゃないか。よくそんな回りくどい起こし方を考え付いたもんだ。僕は笑って立ち上がった。そして、鍵盤の上の黒猫を抱き上げると、別に何が起きてもいいような、そんな不思議な余裕が生まれた。

 時々、キジのことを忘れそうになっている自分に気が付いて、少し驚く。そのときは右手の人差し指を動かすことにしている。僕の右手の人差し指は、キジのことをよく覚えている。二回ほど折れ曲がった、カギ尻尾の形を覚えている。僕はまだ、ヴァイスの腹に白い毛があること、クマが牛乳を好んで飲むこと、そういったことをしっかりと覚えている。死ぬまで忘れなかったらこの勝負は僕の勝ちだと思う。

- 05/11/23 -

[ GreenEyedCats ] 秋と猫と冬が来た

 猫達にとって初めての冬がやってきた。
 猫には衣替えがない。夏も冬も同じ毛皮で過ごすしかない。多少濃くなったり薄くなったりはするようだけど、人間の衣類のような劇的な変化をすることはなく、傍目には T シャツとタンクトップの差くらいしかないように思える。あ、いや、そんな薄着ではないから、コットンセーターとウールセーターの差くらいしかない、にしておこう。とにかく、猫には衣替えがない。だから季節の変化がより切実な問題となるだろう。夏も冬も T シャツにセーターを着た自分を想像するとうんざりしてしまう。

 別にしつけをしたわけではないのだけど、クマもヴァイスもテーブルの上に登ることはない。テーブルといっても膝までの高さもないもので、要するにちゃぶ台のことなのだけど、とにかくそこが歩くべき場所ではないことくらい猫達だって分かっているようだ。しかしクマは、はっきりとした目的を持ったときに限り、その上に登ることがある。目的は大体ふたつに分類することができる。ひとつは、テーブルの上に美味しそうな食事があるとき。もうひとつは、椅子の上の膝に登りたいときだ。
 ある朝、何も考えずにベッドに座っていたら、クマが膝の上に登ってきた。それ自体は珍しいことではない。しかし僕が彼を床に下ろして立ち上がると、彼は急に大声で鳴き始めた。椅子に座り、どうしたんだよ、と眺める。するとクマは、テーブルを踏み台にして、僕の膝の上まで登ってきた。そんなことは今まで一度もなかった。椅子の上の膝に登るのは、ヴァイスの仕事であってクマの仕事ではないはずだった。
 そのとき僕は、冬が来たことをはっきりと理解した。それは、夜道で震えたときにも、コートを取り出したときにもなかった、あまりにもはっきりとした理解だった。手を伸ばせばつかめそうなくらいだった。

 ベッドに横になっていたら、ヴァイスが頬を舐めてきた。ヴァイスは指を差し出すと舐める癖があるのだけど、頬を舐められたのは初めてのことだった。彼女なりに何か伝えたいことがあったのかも知れないし、単に気紛れを起こしただけなのかも知れない。どちらでもいい。猫のざらざらした舌で擦られて、僕の頬は少しだけひりひりした。

 冬は厳しい季節だ。多くの人間が確実に死ぬし、多くの猫もまた確実に死ぬ。猫達は冬の恐ろしさをまだ知らない。T シャツにセーターで夜を過ごすことの無謀さを知らない。コートや毛皮を突き抜けてくる、あの絶望的な寒さを知らない。当たり前だ。まだ生まれて半年くらいじゃないか。
 短くなった昼間、冬の細長い日差しを受けて、猫達は安らかに眠っている。

- 05/11/25 -

[ Introduction ] -7 の由来

 プロコフィエフという作曲家にピアノソナタ第七番って曲がありましてね。これの第三楽章が頭のおかしいことに七拍子なんですよ。七拍子。狂った感じの曲なんですけどね。まあそれだけならいいんですよ。ただその曲を、ある先輩が編曲したんです。どう編曲したのかというと、楽譜をさかさまにした。それだけです。さかさまにした楽譜をそのままに弾けば、それはもう全く違う曲。そりゃそうですよね。文章を末尾の文字から読んでいくようなものです。手抜きにも程がある。その楽譜は、逆譜とか呼ばれてるんですが、それを見たとき、僕は思ったんですよ。ああ、これはもう七拍子じゃない。マイナス七拍子だって。で、その意味や語義はともかく、マイナス七拍子という言葉の響きには妙に惹き付けられるものがありまして、こうして -7 というサイト名が付けられるに至ったわけです。ごめんなさい嘘です。逆譜が存在するのは本当ですが、それを見ても馬鹿じゃないのと思っただけでした。いや、いい意味でね、いい意味で。

- 05/11/26 -

 シュークリームとサンタクロースに関する考察

 友人と僕がシュークリームを食べていたら、友人がこんなことを言った。

「シュークリームって、黄色いクリームの他に、白いクリームが入っているときあるよね」

 友人よ、それはホイップクリームである。通常の場合、シュークリームの中にはカスタードクリームが詰まっているものだ。そもそもシュークリームというお菓子を発明したのはフランスのマルク・シュール伯爵(1732-1798)であり、彼自身はこれを「シュークリームの皮にシュークリームの中身を入れたもの」と呼んでいたのだが、冗長であるという理由から後世の人間が彼の名に因んで「シュークリーム」と呼ぶようになった、というのは有名な話である。当時は伯爵の令により、シュークリームを単にシュークリームと呼ぶことは許されず、またカスタードクリーム以外のものを入れることも御法度であった。かのマリー・アントワネットでさえも伯爵の意に背くことを恐れ、ホイップクリーム入りのシュークリームが食べたいときは、仕方なく代わりに「シュークリームの皮にホイップクリームとカスタードクリームを入れたもの」を食べた、と言われている。シュール伯爵の恐るべき支配は彼の死とともに終わり、現在では我々には等しくシュークリームにホイップクリームを入れる権利が与えられている。このホイップクリーム、作り方を御存知だろうか。生クリームに砂糖を加えてホイップする。以上。名前が作り方だ。
 ホイップといえばメレンゲを思わずにはいられない。シフォンケーキなどに入っているあれである。このメレンゲ、作り方を御存知だろうか。卵白に砂糖を加えてホイップする。以上。またしても名前が作り方だ。しかしよく考えて欲しい。卵白に砂糖を加えたものである。本当にそんなものが美味しいのか。ケーキに加える必要があるのか。僕は一度試しに卵白に砂糖を加えて、フライパンで焼いて食べてみたことがある。あれは美味しくない。二度と食べたくない。美味しくないというか、あれは食べ物じゃない。地面に埋めるのが正しい処理である。土の上には線香だ。
 何故こんなことが起こり得るのか。同じ材料でありながら、片方は美味しいケーキの中であり、もう片方は冷たい土の中である。僕が考えるに、神様がすり替えているのではないだろうか。そうでないと説明が付かない。大昔の人間が、どういった動機に基づいていたのか今となっては分からないが、卵白をホイップしていたのだ。名は与作(28)、職は木こりである。それを天上から見ていた神様、最初は「こいつ何してんね。卵白なんか混ぜて。阿呆やなあ」と笑っていたのだが、与作のあまりに一生懸命な姿に段々気の毒になってしまった。やがて神様は「可哀相やなあ。儂が食べ物にしたるわ」と杖を振りかざした。すると卵白は硬くなってメレンゲになった。びっくりしたのは与作である。慌てて妻のハナ(29)にそのことを教えた。最初は半信半疑だったハナであるが、自分で卵白をホイップしてみると、神様が「与作が嘘吐きにされたら大変や」とまた杖を振りかざしたので、卵白はメレンゲになった。びっくりしたのはハナである。慌てて近所の知り合いであるイノ(32)にそのことを教えた。イノは娘のアンナ(14)にそれを教え、アンナはポチ(5)にそれを教える。こうなると神様は大忙しである。毎日毎日寝る暇もなく「ポチが嘘吐きにされたら大変や」と杖を振りかざしては、ホイップされている卵白をメレンゲに変えなければならない。いつしか神様はメレンゲの神様という名前を持つに至り、現在でも主にメレンゲを作る工場の上空で杖を振りかざしている。今頃になって「なんで儂、あんなことしてもうたんやろ」とぼやいても仕方ない。時々人間がメレンゲ作りに失敗してしまうのは、油分の混入や過剰なホイップが原因ではなく、メレンゲの神様が居眠りしてたり余所見してたりするからである。メレンゲの神様。出身は兵庫だ。兵庫の尼崎だ。

「なんだか無茶苦茶忙しそうだなあ、メレンゲの神様。同じことがサンタクロースにも言えるけど」

 友人よ、集合知性体仮説を御存知だろうか。かの有名なヒット曲「およげ!たいやきくん」には明らかな矛盾点がある。即ち、主人公であるたいやきは、どうして毎日自分が焼かれていることを知っているのか。たいやきは一度焼かれたら食べられて終わりではないのか。たいやきという存在の宿命が、歌詞の冒頭と正面衝突してしまっている。この矛盾を解消するのが、集合知性体仮説である。つまり、たいやきは個体であると同時に集合体であって、お互いの意識や記憶を共有することができ、集合体にはもう食べられてしまったたいやきの存在も含まれているため、主人公は毎日自分が焼かれていることを知っているのである。きっと何百億もの焼かれた記憶、そして食べられた記憶を持つであろう、主人公の苦痛は察するに余りある。それ故に主人公は、海に逃げ込むことで集合体から独立して、個の概念を形成するに至ったのである。再び主人公が集合体に戻ったとき、たいやきの世界に革命が起こり、たいやきはみな個体としての自我を持ち始めるのであろうが、しかしその前に主人公は釣り人に食べられてしまうのであった。悲しい歌である。尚、この仮説を思い付いたのは僕ではないのでそのつもりで。たいやきくん。中身は餡子だ。
 さて、これがどうサンタクロースに関係するのか。サンタクロースも、残念ながら意識や記憶の共有はできないようであるが、集合知性体なのではなかろうか。サンタクロースは個体であると同時に、サンタクロースという概念によって規格化される集合体の一部なのである。最初はきっと、子供が寝ている間にプレゼントを枕元に置いておいた、優しいお父さんであるロバート・ウィリアムズ(33)だったのだろう。クリスマスの粋なサプライズプレゼントである。起きた子供のクリス(12)は大喜びで、プレゼントの箱を開ける。ロバートは同僚のマイケル(32)に「うちの子、大はしゃぎやったわ。あいつ『一体、誰が置いてったんやろ』とか言ってきたから『きっと赤い服の殺人鬼やで。ユダを自殺に追い込んだのもそいつや』って誤魔化しといたわ」と自分の成功談を話す。マイケルも似たような真似をする。こうしてこの習慣が世界中に広まっていき、サンタクロースという概念も次第に共通の形や色を持つようになってきたわけである。地方によっては変わった特徴を持ったサンタクロースも共有化されていることだろう。チェーンソーを持っているとか、左手の先がフックになっているとか、そういったケースも珍しくない。日本の東北地方には「わるいごはいねぇがぁ」と怒鳴るサンタクロースまでいると聞く。何にせよ、革命のきっかけとなったのは、ある親から子への愛情である。ロバートとクリス。プレゼントは拳銃だ。
 故に、父親がサンタクロースであっても、恋人がサンタクロースであっても、そこには嘘や偽りは一切ない。父親も恋人も、紛れもなくサンタクロース集合体の一部であり、同時にサンタクロース本人なのである。赤い服がなくても白い髭がなくても問題ない。トナカイなんてソリを焚き木にして焼いて食べてしまえ。ああいった形で描かれるサンタクロースは、飽くまでも概念としてのサンタクロースである。本当に赤い服なんか着ていてはコカ・コーラを宣伝している殺人鬼だと思われるのが関の山だ。たいやきがすべて同じ形でなくても、たいやきはやはりすべてたいやきではないか。ユークリッド幾何学は観念的にしか存在し得ないが、しかし我々がノートに書く三角形はやはり三角形ではないか。子供が「サンタクロースってほんまにおんねんか?」と聞いてきたら、胸を張って「おるよ」と答えて良い。こうした返答を社説に載せたニューヨーク・サン新聞社は偉大である。サンタクロース。出身は兵庫だ。兵庫の西宮だ。甲子園球場があるぞ。

「なるほど。集合知性体ね。じゃあ、授業に行ってくる」

 以上、友人と僕が過ごした月曜日のお昼休み、そのとある五分間での出来事である。ああ、関西弁が胡散臭い。

 参考リンク。集合知性体仮説について。

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