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Mainana Category - GreenEyedCats

- 05/10/20 -

[ GreenEyedCats ] キジとクマとヴァイス

 秋になってから僕の部屋には三匹の猫達が住み着くようになった。
 ある小説の主人公は二十四歳で双子の女の子と暮らしていたが、僕は二十三歳で三匹の猫達と暮らしている。これは結構いい勝負なのではないかと思う。

 猫達が生まれて間もない頃から、僕は彼らのことを知っている。
 近所に黒っぽい色をした縞模様の猫がいた。鈴のある首輪をしていたが、いつも塀の上や家の間を歩いていて、あまり人に懐かないような猫だった。それが春の終わりに子供を生んだ。飼い主には猫を室内に入れておく習慣がなかったらしく、小猫達はその家の前にある階段でよく寝ていた。最初は人が近付くと怖がって逃げていたが、少しずつ周りの環境に慣れるようになり、やがて近所でも評判の小猫達となった。
 小猫達は裏道を駆け回り、自転車のペダルを動かして驚き、取っ組み合いをして遊んだ。恐らく飼い主により、首輪がつけられた。ダンゴムシと格闘し、テニスボールを奪い合った。背の低い木に登り、草の露を舐めた。電信柱の上で鳥が鳴いているとその音を真似て奇妙な声を出した。小さな猫達の大きな存在は近隣の誰もが知るところとなった。夜道に猫を見付けると少なからぬ割合の人間が足を止めた。
 その頃の猫達は植え込みを寝床にしていた。小さなマンションの駐輪場の脇にあるひっそりとした植え込みで、三匹も猫が暮らしているために、そこからは少しばかり悪臭がした。全く、困っているんだよ、とマンションの住人が不愉快そうに話した。誰もが猫を好き好んでいるわけではなかった。飼い主の家にはもう終わった選挙のポスターが未だに貼り付けられていた。夏が終わろうとしていた。冷たい雨が多くなった。

 僕は猫達に餌を与え、水を与え、屋根を与えることにした。僕の外出時には一緒に外に出てもらうが、部屋に戻るとすぐに窓から入ってくるので、どうやら嫌われてはいないらしい。
 雄の雉猫にはキジと名付けた。キズと呼ぶこともある。尻尾がカギ尻尾になっていて、よく引っ掛かったりしている。部屋の隅、押入れ、ダンボール箱の中といった狭い場所にいることを好む。
 雄の黒猫にはクマと名付けた。顔付きがどことなく熊に似ているからだ。気質は割と穏やかで大人しく、よくベッドやクッションの上で寝ている。滑らかで真っ黒な毛並みが美しい。食欲旺盛。
 雌の黒猫にはヴァイスと名付けた。Vice ではなく Weiss である。体付きが小さく、とても軽い。大きな目と小さな顔が愛らしいが、少しばかり気性が荒い。黒い毛にうっすらと縞模様が見える。
 猫達は部屋の中で暴れたり眠ったりしている。ここで生まれ育ったと言わんばかりに勝手に遊んで暮らしている。初めは部屋に入るのさえ躊躇していたことを思えば、これもひとつの成果と言えるのかも知れない。

 三匹の猫達は、本当は、四匹の猫達になるはずだった。
 でも、今となっては雄か雌かも分からないもう一匹の猫は、世界のどこかに行ってしまい、二度と戻ってはこなかった。僕は時々、その猫のことを考える。三匹の猫達は、もう一匹いたかも知れない自分のことなどすっかり忘れて、今日も無心にモンプチを食べている。モンプチは人間から見ても美味しそうに思える数少ないキャットフードのひとつだと思う。

- 05/11/07 -

[ GreenEyedCats ] キジがいなくなった

 キジがいなくなった。
 理由はよく分からない。首輪を付け替えたのが悪かったのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。一人旅に出たくなったのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。元の飼い主が何かしたのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。何を考えたって同じだ。そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。
 とにかく、僕には分からない理由によって、キジはいなくなってしまった。

 残された二匹の猫達は今も僕のところにいる。一緒に寝て、一緒に起きている。牛乳を飲み、キャットフードを食べている。毛布や椅子の上で気持ち良さそうに眠っている。部屋に帰ってくると大きな声で鳴く。床に座っていると膝の上に登ってくる。
 猫達はとても大人しくなった。暴れることもないではないけれど、静かに歩き回ったりのんびり休んだりしていることが多くなった。外に出たときは元気良く駆け回っているので、部屋の中は運動に適さない空間だと理解したのかも知れない。あるいは単に寒くなったからかも知れない。
 ヴァイスは時々やたらと甘えてくるようになった。妙に足にすりついてきて、少し歩きにくいこともある。椅子に座っていても膝の上に飛び乗ってくるくらいだ。一方クマはベッドの上で寝てばかりいる。どうやら布団の上に毛布を敷いておくと喜ぶようだ。寝る子は育つとはよく言ったもので、随分と大きく育ってしまった。抱き上げても猫達はもうあまり暴れない。十五分くらいなら抱いたまま近所を散歩できるようになった。ヴァイスは哀れっぽい丸い目で僕のことを見る。クマは仙人のような細い目で僕のことを見る。
 キジがいなくなったことは、二匹の猫達に何の影響も与えていないようだった。
 ではやはり、キジがいなくなったことによって影響を受けるべきなのは、僕自身なのだろうか。

 ある朝、電子ピアノが急に鳴って僕は飛び起きた。驚いて電子ピアノを見ると、黒猫が鍵盤の上を歩いていた。ああ、やるじゃないか。よくそんな回りくどい起こし方を考え付いたもんだ。僕は笑って立ち上がった。そして、鍵盤の上の黒猫を抱き上げると、別に何が起きてもいいような、そんな不思議な余裕が生まれた。

 時々、キジのことを忘れそうになっている自分に気が付いて、少し驚く。そのときは右手の人差し指を動かすことにしている。僕の右手の人差し指は、キジのことをよく覚えている。二回ほど折れ曲がった、カギ尻尾の形を覚えている。僕はまだ、ヴァイスの腹に白い毛があること、クマが牛乳を好んで飲むこと、そういったことをしっかりと覚えている。死ぬまで忘れなかったらこの勝負は僕の勝ちだと思う。

- 05/11/23 -

[ GreenEyedCats ] 秋と猫と冬が来た

 猫達にとって初めての冬がやってきた。
 猫には衣替えがない。夏も冬も同じ毛皮で過ごすしかない。多少濃くなったり薄くなったりはするようだけど、人間の衣類のような劇的な変化をすることはなく、傍目には T シャツとタンクトップの差くらいしかないように思える。あ、いや、そんな薄着ではないから、コットンセーターとウールセーターの差くらいしかない、にしておこう。とにかく、猫には衣替えがない。だから季節の変化がより切実な問題となるだろう。夏も冬も T シャツにセーターを着た自分を想像するとうんざりしてしまう。

 別にしつけをしたわけではないのだけど、クマもヴァイスもテーブルの上に登ることはない。テーブルといっても膝までの高さもないもので、要するにちゃぶ台のことなのだけど、とにかくそこが歩くべき場所ではないことくらい猫達だって分かっているようだ。しかしクマは、はっきりとした目的を持ったときに限り、その上に登ることがある。目的は大体ふたつに分類することができる。ひとつは、テーブルの上に美味しそうな食事があるとき。もうひとつは、椅子の上の膝に登りたいときだ。
 ある朝、何も考えずにベッドに座っていたら、クマが膝の上に登ってきた。それ自体は珍しいことではない。しかし僕が彼を床に下ろして立ち上がると、彼は急に大声で鳴き始めた。椅子に座り、どうしたんだよ、と眺める。するとクマは、テーブルを踏み台にして、僕の膝の上まで登ってきた。そんなことは今まで一度もなかった。椅子の上の膝に登るのは、ヴァイスの仕事であってクマの仕事ではないはずだった。
 そのとき僕は、冬が来たことをはっきりと理解した。それは、夜道で震えたときにも、コートを取り出したときにもなかった、あまりにもはっきりとした理解だった。手を伸ばせばつかめそうなくらいだった。

 ベッドに横になっていたら、ヴァイスが頬を舐めてきた。ヴァイスは指を差し出すと舐める癖があるのだけど、頬を舐められたのは初めてのことだった。彼女なりに何か伝えたいことがあったのかも知れないし、単に気紛れを起こしただけなのかも知れない。どちらでもいい。猫のざらざらした舌で擦られて、僕の頬は少しだけひりひりした。

 冬は厳しい季節だ。多くの人間が確実に死ぬし、多くの猫もまた確実に死ぬ。猫達は冬の恐ろしさをまだ知らない。T シャツにセーターで夜を過ごすことの無謀さを知らない。コートや毛皮を突き抜けてくる、あの絶望的な寒さを知らない。当たり前だ。まだ生まれて半年くらいじゃないか。
 短くなった昼間、冬の細長い日差しを受けて、猫達は安らかに眠っている。

- 05/12/13 -

[ GreenEyedCats ] マフラーを買った

 生まれて初めてマフラーを買った。

 僕はずっとマフラーが大の苦手で、ここ十年くらい身につけたことがなかった。いや、少しくらいならつけていたのかも知れないけれど、自分から進んでつけることは多分一度もなかったと思う。とにかく子供の頃から、マフラーが嫌で嫌で仕方なかったのだ。マフラーをつけなさい、という家族の言葉には悪意すら感じた。自意識が強すぎたのだろう。
 昔からマフラーをつけると違和感がした。背筋がぞぞっと震えて、余計に寒気がした。蛇のような生き物が首に巻きついているような感覚があった。いや、流石にそれは大袈裟だけど、マフラーをつけることによって自分の一部が侵されるような感覚は、物心つく前から確かにあった。息苦しいとか締め付けられるとか、そういう感覚とも少し違うが、正直よく分からない。うまく説明できそうにない。あれは多分、誰もが子供の頃に持っている、名無しの怪物だったのだろう。なんだかカッコいいからそういうことにしておく。
 マフラーをつけなかったので下校中に凍死しました、ということは滅多にないため、中学校でも高校でも大学でも、僕はずっとマフラーを避けてきた。まあ誰にだって少しくらい苦手なものはあるだろう。ジェリービーンズとか、グレーハウンドとか、日本人形とか。そういうことだ。

 上野駅の改札の中にユニクロがある。茶色と緑色の間のような色合いのマフラーを衝動買いした。1500円だった。
 自分の首に巻きついていたはずの蛇はいつの間にか、ただの古臭いロープになっていたのでゴミ箱に投げ捨てた。幽霊の正体見たり枯れ尾花。名無しの怪物も年には勝てなかったのであろう。十数年振りにつけるマフラーはとても暖かかった。なんとなく、大人になるということは、マフラーをつけられるようになることかも知れないな、と思った。そして、つい先日、大人になるということは、猫を飼えるようになることかも知れないな、と思ったことを思い出した。
 部屋に戻ってマフラーを外してベッドの上に置いた。あとで見ると当たり前のように猫がその上で眠っていた。悔しくなったので猫を首に巻きつけたら引っ掻かれて逃げられた。

- 05/12/22 -

[ GreenEyedCats ] 猫の寿命とそのあと

 ふと、猫は何年くらい生きられるのだろう、と思った。
 僕の知っている猫で十九年も生きていてまだ元気な奴がいる。また、知り合いのおばさんが飼っていた猫は二十一年も生きたそうだ。ギネスブックに載っている猫の長寿記録は三十四年二ヶ月四時間だという。
 でもそれらは特殊な例だろう。普通の猫は十年くらいで死んでしまうはずだ。いつか冷たくなって、土に埋められる。そして違う存在となる。犬になるかも知れないし、蜂になるかも知れないし、雲になるかも知れない。運が良ければ草原の大きなポプラの木になって、ひなたぼっこをしている猫達を見下ろせるかも知れない。夜になったら渡り鳥が枝にとまって、遠い遠い世界の話をしてくれることだろう。往々にしてそういう話の九割は誇張なのだけど、まあ誇張は誇張で悪くないものだ。たとえ作り話だとしても、南の島で白いイルカと殴り合ったときの話なら、下手な漫談より面白いに違いない。
 とにかく、猫はいつか死ぬ。それも、大抵の場合は、人間よりも先に死ぬ。

 いつか年寄りになって、日の当たる縁側でお茶を飲みながら、座布団で寝ている猫の背中を撫でたい、といった分かりやすい夢がある。いつからかその夢に出てくる猫は、クマかヴァイスのどちらかになっていた。考えてみればもう二ヶ月も一緒の部屋で暮らしているのだ。自然と思い浮かばない方がどうかしている。
 しかしそれは決して叶わぬ夢だ。二十年経っても僕はまだ中年で、年寄りとは言いがたい。僕が年寄りになった頃には、猫達はもう猫達ではないだろう。多分、もう若木を通り越して、立派な木になっている頃だと思う。真っ黒な二本の木が隣り合って立っていたら、それだ。一本は幹がやや太く、もう一本に白い部分があったら、もう間違いない。その近くには雉色の木も見付かるはずだ。
 僕も年を取って、いつか死ぬ。ただその前に、そういうポプラの木を眺めることができたら、それはとてもいいものだろう。なに、探し出すのはそんなに難しいことじゃない。なんてったって、真っ黒なポプラの木だ。そうそうあるもんじゃない。きっとすぐに見付かる。僕も渡り鳥が皇帝ペンギンと格闘したときの話を聞かせてもらうことにしよう。

- 05/12/27 -

[ GreenEyedCats ] 猫とクリスマス

 クリスマスの少し前から、猫達に何かをプレゼントしようと考えていた。
 こんな機会は滅多にない。少なくとも僕はこれまでの人生で、猫に何かをクリスマスプレゼントしたことはなかったように思う。クリスマスプレゼントというものは、大抵の場合、人間から人間に与えられる。そこに猫の入り込む余地はあまりない。まあ猫というのは概してそういうものだ。節分にも七夕にも十五夜にも、猫はあまり関係しない。ハロウィンには少し出番があるようだけど、まあそんなことはどうでもよろしい。
 プレゼントをあげること自体はすぐに決めたのだけど、猫達が何を欲しがっているのかなんて、そりゃあ猫達が何を欲しがっているのかくらい分からない。何か欲しいものはないかと尋ねてみても、何も知らない振りをして「にゃあ」と鳴くだけだ。あるいは「あーうー」や「ほーほけきょ」と鳴くだけだ。頼むから日本語を使って欲しい。君達はニューヨークでも東北弁で押し切る田舎のおばちゃん達か。
 最初に考えたのは猫用のソファ、あるいは猫用のベッドであった。しかし考えてみれば、猫達は僕のベッドの上で寝るのが習慣となっている。慣れた広いベッドと新しい狭いベッド、果たしてどちらを選ぶだろう。よく分からなくなってきた。思うに、当たり前のことだけど、ペット用品店に置いてある商品というものは、ペットが喜ぶものというよりは、ペットを飼っている人間が喜ぶものなのだろう。ケージにしてもキャリーバッグにしても、猫達が欲しがっているようなものとは思えない。どこに自分の爪切りを欲しがる猫がいるだろう。
 なんだか自分自身が子供に百科事典を買い与える親のように思えてきた。これなら近所の魚屋でアジの切り身でも買ってきた方がずっとましじゃないか。

 代々木上原の駅の中にペットショップがある。ショーウィンドウでは小猫と小犬が遊んでいて、こじゃれた横文字の缶詰が並んでいる。そういうお店だ。十二月二十六日の夜、そこで木製の外国のおもちゃを買った。球形をしていて、転がすと音が鳴る。猫にはちょうど良さそうだ。何よりも見た目がいい。
 地下鉄で少し眠り、寒い夜道を歩いた。部屋に戻るとすぐに猫達がやってきた。僕はクマとヴァイスに一日遅れのクリスマスプレゼントを差し出した。猫達がそれに興味を示したのは十秒くらいで、あとはそれを下敷きにして毛布の上で寝てしまった。頭を撫でていたらヴァイスが指を舐めてきて、そして軽く甘噛みをしてきた。あの、それはちょっと痛いから止めてくれませんか。猫達からはいつもいい匂いがする。メリークリスマス。

- 06/02/05 -

[ GreenEyedCats ] 初の雪

 五年振りの大雪だそうだ。

 先月のことである。お昼頃に起きて、カーテンを開けた僕は驚いた。窓の向こうが真っ白になっていたからだ。僕は横で寝ていた猫達を叩き起こした。雪だよ、雪。窓を開けると大粒の雪がひらひらと降っていて、向かいの塀には五センチほどの雪が積もっていた。田舎ならこれくらいの積雪は珍しいものではないけれど、ここは東京都の荒川区である。こんな光景は滅多に見られない。クマは窓のところに立ち止まって、興味深そうに外の様子を眺めていたけれど、やがてベッドに引き返して丸くなってしまった。きっと寒かったのだろう。
 しかしヴァイスは違った。ベランダに出て逡巡し、手すりの上で逡巡し、エアコンの室外機の上で逡巡しながらも、結局は雪の積もる地面に降り立っていった。ゆっくりと部屋の前を歩き、ゴミ置き場の向こうにまで行ってしまった。雪の上に残った小さな足跡を、音もなく降る雪が消していった。少しばかり心配になったけど、あまり気にしないことに決めた。
 この雪は、猫達にとって、生まれて初めての雪だ。僕は生まれて初めての雪なんか覚えていない。覚えているはずもない。僕は冬に生まれた。僕は生まれてすぐに雪を見たはずだ。覚えているはずがないじゃないか。そのときの僕は僕じゃなかった。人間だったかどうかさえ疑わしいくらいだ。
 もう猫達は子供じゃない。すっかり大きく育ってしまった。体格だけなら立派な猫だ。それでもこの冬は猫達にとって初めての冬で、この雪は猫達にとって初めての雪だ。クマはいつものようにベッドの上で寝ている。猫ともあろうものが、たかが雪くらいで、影響を受けるわけにはいかないのだ。

 結局、小一時間ほどして、ヴァイスは部屋に戻ってきた。そのとき僕は台所でチャーハンを作っていた。抱き上げたヴァイスは冷たく濡れていたけれど、特に別状はなさそうだった。ヴァイスはベッドの上に登り、クマと一緒に丸くなった。二匹の猫達は雪のない部屋にいた。
 それから更に一時間後、僕はヴァイスのお尻から何か生物のようなものが出てきたのを見付けて驚くのだけど、それはまた別の物語である。

- 06/04/25 -

[ GreenEyedCats ] Dialogue Part I a

「えっと、どこまで話したんだっけ?」
「雪が降ったところまでだね」
「ああ、そうか。そう、冬の終わり頃には、クマを病院まで連れていったんだ。洗濯ネットと旅行鞄に詰め込んでね」
「病院…? あ、もしかして」
「うん、そういうこと」
「そっか。まあ仕方ないよね」
「申し訳ないとは思うけどね。クマは大人しかったよ。病院に行くまでの間は時々鳴いてたけど、着いたらもう暴れずにじっとしてた。脈拍を測るときに看護婦さんが『随分ドキドキしてますね』って言ってたよ。やっぱり怖かったんだろうね。手術が終わった後は『とても大人しい子でした』ってお医者さんから褒められたんだ」
「そっか。…ダメだ、あんまり考えるもんじゃないね」
「…そうそう、帰るときに病院のひとがカラーをくれるのを忘れていてね」
「カラーって?」
「手術の傷口を舐めないように、頭の回りをプラスチックの器具で覆うんだよ」
「ああ、化膿しないように」
「そう。クマの奴、部屋の前まで戻ったら麻酔が切れたのか、急に暴れ出してね。傷口を舐め出して大変だったよ。慌てて病院のひとに電話して来てもらったんだ」
「そりゃあ大変だったね」
「まあなんとか術後の経過も異常なし。相変わらずクマは元気だよ。なべて世はこともなし」
「…ふむ」
「実はこの話にはオチがあってね。病院で作ってもらった書類の写しを見たら、クマの種類のところに思いっきり『犬』って書いてあったんだ」
「ほんと?」
「ほんと」

- 06/04/26 -

[ GreenEyedCats ] Dialogue Part I b

「それから?」
「うん、引っ越しをしたんだ。多分、猫達はもう二度と自分の母親に会えないと思う」
「まあ、やっぱりそうなんだろうね」
「悪いとは思うよ。でも仕方のないことなんだ。誰かと一緒に生きるってのは、その相手に多かれ少なかれ迷惑を掛け続けるってことなんだし、それが嫌なら井戸の中で念仏でも唱えているしかないんだ」
「…そんな極端なものでもないと思うけどね」
「確かに。猫達を運ぶのにはやっぱり洗濯ネットと旅行鞄を使ったよ。引っ越し先に着いたときには、鞄の内側がびっしょりになってた。きっと暑かったんだろうね」
「はは、かわいそうに」
「新しい部屋には小さな庭があって、朝は日差しがすっと入り込んでくるんだ。猫達はよくそこで気持ち良さそうに日向ぼっこをしている。もうすっかり溶け込んでくれたよ。近所の子供が部屋の前を通ると、猫を探しているのが分かるんだ。そういうのって、悪くないもんだよ」
「うん、分かるよ」
「…まあそれでも、色々あったんだけどね」
「ほう。例えば?」
「引っ越しの前に、ヴァイスが怪我をしたんだ。右足。どうしてそうなったのかは分からないけど、とにかく右足に怪我をして、傷口からちょっと血が出ていた。ほっとけばすぐ治るような傷だったんだけど、ほら、猫は舐めるからね。少しずつ時間をかけて、徐々に悪くなっていった。一ヶ月くらい続いたかな。骨のような地肌が見えていたよ。右足を引きずるようにして歩くんだ。もう痛々しくてね。そこで、さっき言ったクマのカラーをつけてもらったんだ。なんとか無事に良くなっていったよ。今はもう完治して、傷口の毛も生え揃ったんだ」
「なるほど。良かった良かった。クマの方は?」
「近所の家で飼っている小鳥を襲おうとして、僕と近所のひとの大目玉を食ったよ」
「あはは」
「やれやれ」

- 06/04/28 -

[ GreenEyedCats ] Dialogue Part I c

「あとは?」
「そうだね。半月前にヴァイスが子供を産んだくらいかな」
「…へえ、そうかそうか」
「うん、ちょっと驚いたよ。でもね、これは結局のところ、当たり前のことなんだ。誰もが確実にできることではないだろうけど、然るべき状況と然るべき手続きさえあれば、然るべき結果は必然的に出てくるんだよ」
「まあそうだろうね」
「カップにお湯を注いで、三分待ったら、そこにはラーメンがあるんだ」
「はは。僕達はみんなカップラーメンかい?」
「そう。僕達はみんなカップラーメンだよ」
「そうなのかも知れないね。父親は誰なのか分かっているのかい?」
「確証はないけど、多分、クマだと思う」
「…なるほど。じゃあやっぱり小猫は黒猫?」
「三匹はね。二匹は雌で、一匹は雄。もう一匹は雌の雉猫だよ」
「へえ。そういえばキジも雉猫だったんだよね?」
「うん。クマとヴァイスの母親も縞模様のある猫だったしね」
「なるほど。じゃあ生まれてきた彼女は、帰ってきたキジだ」
「そういうことになるね。ちょうどどちらもカギ尻尾だし」
「なかなかうまいこと出来ているじゃないか」
「なかなかうまいこと出来ている」
「…まあ、君も猫達も、元気にやっているようで何よりだ」
「まあね」
「今日はこれくらいかな」
「そうだね」
「じゃあ、また手紙をくれよ」
「分かった」

- 06/05/06 -

[ GreenEyedCats ] 幸せそうな猫の家族

 クマがちょっと優しくなった。

 クマはそもそも勝手な奴だ。ヴァイスが割と従順で大人しいというか、注意されたことはきちんと守ろうとする、お行儀の良い猫であるのに対して、クマは何度怒られても壁を引っ掻くのを止めようとしないようなところがある。また、ヴァイスは普段から物静かで鳴き声もあまり大きくないのだけど、クマは僕が買い物に行くだけでも大声で鳴き出して、周囲の注目の的になろうとする。そのせいか、近所ではクマばかりが有名になって、ヴァイスの名はあまり広まっていないようだ。そういえば僕の膝の上に登るのもクマだけで、ヴァイスはもうそういう真似を止めてしまった。これは少しばかり寂しい話である。
 小猫達が生まれても、クマの勝手な気質は変わらなかった。流石に小猫達が生まれたそのときばかりは、粘液で濡れた鼠のような小猫達を必死になってヴァイスと一緒に舐めていたけれど、それでも一時間も経てばふらりとどこかに行ってしまった。毎晩毎晩ヴァイスと小猫達が押し入れの暗がりでじっとしている間、クマはベッドの上やクッションの上でのんきそうに眠っていた。クマにはもう小猫達が見えていないのかも知れなかった。
 大家さんはどうやら把握していないようなのだけど、僕が住んでいるところの二階でも猫を飼っているようで、窓越しに猫の顔がうっすらと見えていることがある。クマは夜な夜なその窓の前で立ち止まり、大きな声を上げて人間には理解しがたいメッセージを高らかに歌う。また、近所にいる縞猫と向き合って唸り合っていることも多い。時には正面から衝突してしまうこともあるくらいだ。近所迷惑だから止めてくれと言っても聞こうともしない。全く、困ったものである。

 そんなクマが、最近はヴァイスや小猫達と一緒になって、よくベッドの上で幸せそうに眠っている。小猫の背中を舐めることだって珍しくない。近所に迷惑をかけるような真似も減ったように思う。何がクマを変えたのか、僕にはよく分からない。動き回れるようになった小猫達の存在かも知れないし、あるいは五月の暖かく穏やかな空気かも知れない。何だっていい。肝心なのは、クマがほんの少しだけ優しくなってくれたお陰で、僕の部屋に幸せそうな猫の家族があるということだ。

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