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- 06/06/09 -
■ 雨の日の地下道 3/5
出口に向かうことにした。大きく息を吸い込んで、大きく息を吐き出す。全身の筋肉を意識して、手足を正確に動かす。肝心なのは落ち着くことだ。ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ確実に歩みを進める。小刻みに羽を動かす蛾を通り越して、びしょびしょに濡れた劇団のポスターを踏む。頭上からは低く単調な雑音が聞こえている。
階段の前に辿り着く。見上げると小さな暗い空が四角い隙間に浮かんでいた。焦るんじゃない。右足を前に出し、左足を前に出す。繰り返しだ。規則的に重心を移動させていく。慎重になれ。機械になれ。外から聞こえる音が大きくなってくる。低い音が高くなる。色のない世界が過ぎ去ろうとしている。
そして、もう少しで階段が終わる、そのとき、ついに僕は気付いてしまった。気が付かなければ良かったのに。気が付かなければ、こんな目に遭わずに済んだのに。僕は再び震え出した。胃の底から恐怖が這い出してきた。
どうして、あの女のひとは、ヒールのある靴を履いていたのに。うまく呼吸ができなくなった。変だ。変じゃないか。ヒールのある靴を履いて、この地下道の階段を駆け降りて、滑って転んでしまったというのに、どうして、どうして物音ひとつしなかったんだ?
僕は眩暈がした。倒れてしまわないように手すりにしがみついた。手すりは金属で出来ていて、僕の腕はちりりと冷えた。それだけならまだ良かった。それから僕は、もっとひどいことに気付いてしまった。あまりのひどさに僕は吐き気がした。そんな強烈な吐き気を感じたのは実に数年振りのことだった。僕は唾を飲み込んだ。黒く澱んだものが食道を滑り降りていった。
あの女のひとが階段を駆け登っていったとき、どうして、どうして物音ひとつしなかったんだ?
悪魔が僕の肩を叩いた。
下の方から聞こえてきた。カッカッカッ。足音だ。