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- 06/06/08 -

 雨の日の地下道 2/5

 僕は動けなくなった。手足が動いてくれなかった。僕は石塔になってしまった。見てはいけないものを見てしまったんだよ、と内耳蝸牛が囁いた。いや、それは少し違う。僕は何も見ていない。見ていないのだけど見てしまった。見ていないのだから見てしまった。どう言えばいいのだろう。よく分からない。とにかく僕は、聞こえないはずの音を聞いて、見えるはずの何かが見えなかったのだ。
 口の中で舌が動かせることを確認した。ゆっくり目を閉じて、ゆっくり深呼吸した。僕は少し震えていた。頭上をトラックか何かが通り過ぎて、床と壁と天井が微かに振動した。僕は何も考えないようにして、再び時間が動き出すのを辛抱強く待った。一分か二分くらい、そうした状態が続いたように思う。指先が動くことを確認してから、僕はゆっくり目を開いた。そこには相変わらず誰もいない地下道があった。そして、その不在はすぐに破壊された。
 視界に何かが入ってきた。女のひとだ。
 女のひとが、足早に階段から降りてきて、そして目の前で滑って転んだ。
 白いスタンドカラーコートを着て、ピンクの傘を握り締めている。茶色いウェーブヘアが胸元まで伸びていて、小さなハンドバッグを小脇に抱えていた。転んだときに足でも打ったのか、痛そうに顔をしかめている。ヒールのある靴を履いていた。女のひとはすぐに立ち上がると、また足早にスタスタと歩き出した。僕のことを不審そうにじろりと睨むと、壁際で横を通って、さっさと出口の階段を駆け登ってしまった。
 直感的に分かった。彼女は幽霊じゃない。オバケでもない。人間だ。確かに、この世に生きる、普通の女性だ。間違いない。僕は溜息を吐いた。よく分からなかった。ただ、できる限り速やかにここを立ち去るべきだということだけは、脳幹に染み込むようにはっきりと理解できた。

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