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- 06/06/17 -

 歯磨き粉がないなら絵具を使えばいいじゃない

 某所にて、
「あ、私もその映画を見に行こうと思ってるんですよ。面白かったですか?」
「面白かったですよ。まるで一本の映画を見ているようでした」
 という、なんというかアレな問答を見掛けて思った。
 私達はもっと「まるで一本の映画を見ているようでした」について、日頃から深く考えておく必要があるのではないだろうか。
 たとえば、ある女性が寝る前に日記をつけていたとしよう。つまらない、平凡な、ごく普通の一日の記録である。

 朝の八時に起きて慌てる。時間がないので非常食のカロリーメイトを持って、駅に向かうバスの中で食べる。銀座線はいつものように混んでいて辟易する。九時には会社に着く。仕事をする。コピーの長辺閉じと短辺閉じを間違える。お昼休みはよしちゃんとポポラマーマへ。カルボナーラを食べた。午後は得意先へ。相変わらずあそこの部長は腹が立つ。セクハラもいいところだ。会社を辞めたら起訴することにしよう。夕方には社に戻る。頭の悪い男達が早々に帰っていく。腹が立ったので最後まで残ることに決める。こんな日に限って課長がパソコンに向かってネトゲをしている。なんとか十一時には帰ることができた。シャワーを浴びて、テレビを眺める。コンビニのお弁当を食べて、ビールを飲む。ちえちゃんとメールする。ちえちゃんはよく語尾に数学記号を付ける。日記を書く。二時前。

 面白くともなんともない。しかし、ここにある一文を付け加えるだけで、このモノトーンの水墨画のような日記がたちまち美しい色彩を帯びる。その魔法のような言葉を、君はもう知っているはずだ。

 朝の八時に起きて慌てる。時間がないので非常食のカロリーメイトを持って、駅に向かうバスの中で食べる。銀座線はいつものように混んでいて辟易する。九時には会社に着く。仕事をする。コピーの長辺閉じと短辺閉じを間違える。お昼休みはよしちゃんとポポラマーマへ。カルボナーラを食べた。午後は得意先へ。相変わらずあそこの部長は腹が立つ。セクハラもいいところだ。会社を辞めたら起訴することにしよう。夕方には社に戻る。頭の悪い男達が早々に帰っていく。腹が立ったので最後まで残ることに決める。こんな日に限って課長がパソコンに向かってネトゲをしている。なんとか十一時には帰ることができた。シャワーを浴びて、テレビを眺める。コンビニのお弁当を食べて、ビールを飲む。ちえちゃんとメールする。ちえちゃんはよく語尾に数学記号を付ける。日記を書く。二時前。
 ──まるで一本の映画を見ているようでした。

 おお、なんというドラマチックな一日。これなら万が一急な事故で死んでしまったとしても、よしちゃんは日記を読んで涙をこらえながら「かなちゃん、とっても素敵な人生だったんだね」と言ってくれることだろう。素晴らしい。ブラボー。拍手喝采。我が生涯に一片の悔いなし。
 もちろん、「まるで一本の映画を見ているようでした」が適用できる場面は、これだけではない。

 娘が死んだという報せが入る。妻は泣いていた。私は泣くわけにはいかない。担ぎ込まれてきた患者を診て、看護婦に指示を出す。酔っ払って喧嘩していたらガラス戸に突っ込んでしまったのだという。医者はいいよな、俺達みたいな貧乏人の苦労を知らなくていいんだから、と怒鳴る。無視していたら唾を飛ばされた。どうせそこの看護婦にも手ぇ出してんだろ、分かってんだぞ、おいちょっと待て逃げんな医者。朝の六時に病院を抜ける。朝の電車では徹夜で遊んだ学生達が騒いでいる。靴を履いたまま座席に横になっている男がいる。つかまった手すりがぬめぬめしている。
 ──まるで一本の映画を見ているようでした。

 ああ、あなたの背中に天使の翼が見えます。あなたの魂は極彩色に輝いています。

 午後六時に労働が終わる。独房に戻って、味のしない飯を食べる。退屈なので本を眺めるが、五分と持たない。窓の外の星を見ていると、色々なことを思い出してしまいそうになるので、下唇を噛んで必死に耐える。どこにも逃げることはできない。支給品の絵具を飲み込めば楽になれるだろうか。九時に消灯。すぐに寝る。明日も地獄が待っている。
 ──まるで一本の映画を見ているようでした。

 寝る前は歯くらい磨きましょうよ。

 私はたぶん、今目覚めた。此処は、何処だらう。私は何をしてゐるのだらう。私は生暖かい液体に浸つてゐる。私は目を閉ぢてゐるのだらうか。目を開けてゐるのだらうか。暗い。そして静かだ。私は体を丸くして、液体に浸つてゐる。声が聞こえる。何を怒つてゐるのだらう。いや、悲しんでゐるのだらうか。私の気持ちは、とても安らかである。私は親指を握り締めてゐる。私の臓は外に開いてゐる。私の臓は何処に繋がつてゐるのか、どうも少し寒いやうだ。私は目覚めてゐるのだらうか。「母様」
 ──まるで一本の映画を見ているやうでした。

 ごめん、もう飽きた。やっぱこれつまんないわ。何が映画だ。何が「やう」だ。何が京極夏彦だ。

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